ブログ連続410日目

◆本日はわが営業所の販促に伴う協力者への感謝状贈呈式があった。重要なイベントの一つである。

(今日の出来事)
GDP 7-9月 プラスも伸び鈍化。今年7月から9月までのGDPの伸び率が、年率に換算した実質で前の3ヵ月と比べてプラス1.9%と4期連続のプラス成長となった。しかり、伸び率は前の期に比べて鈍化している。徳島県勝浦町にある自動車部品の工場では軽自動車向けの新しい部品を製造したことで、ここ数年落ち込んでいた売り上げが好転。この会社は、今後の個人消費の伸びが収益改善の追い風になると考えている。一方で、輸出は新興国などで成長が鈍化していることから、3期ぶりにマイナスに転じた。そのため、アジアを中心に輸出を強化している岐阜県高山市の工作機械メーカーでは輸出分の売り上げが40%ダウンし、中間決算は最終損益が赤字となっている。円安を追い風にした輸出の持ち直しと賃上げなどによる個人消費の回復が、本格的な景気回復への鍵となっている。

(11月14日生まれの偉人)
◆佐藤 一斎(さとう いっさい、安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。安永元年10月20日(1772年11月14日)、岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれた。寛政2年(1790年) より岩村藩に仕えた。12、3歳の頃、井上四明の門に入り、長じて大坂に遊学、中井竹山に学んだ。寛政5年(1793年)に、藩主・松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。
 儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130321 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121209/p1)、佐久間象山http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130322)、渡辺崋山http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20131020)、横井小楠http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130922)等、いずれも幕末に活躍した人材たちがいる。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。安政元年(1854年)の、日米和親条約の締結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の六男)を補佐している。
◆菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1955年9月9日)は、日本画家。長野県中野市に生まれる。旧姓細野,本名完爾。はじめ児玉果亭に南画を学んだが,1896年京都に出て南画家の内海立堂に,ついで四条派の菊池芳文(1862‐1918)に師事した。1906年芳文に認められて女婿となり菊池姓を名乗る。しだいに四条派を脱却し,大らかな師風の上に大和絵や漢画を加味して,秀麗な鉄線描の作品を描いた。とくに13年の文展に出品の鉄線描による《鉄漿蜻蛉》(東京国立近代美術館)で頭角を現した。 明治後期から昭和中期にかけての日本画家。
◆佐藤 彦五郎(さとう ひこごろう、文政10年9月25日(1827年11月14日) - 明治35年(1902年)9月17日)は、日本の村役人(名主)。下佐藤家当主で、日野宿組合名主。江戸幕府の京都警備組織である新選組の後援者で、多摩地域の指導者。初代南多摩郡長。
◆南條 範夫(なんじょう のりお、1908年11月14日 - 2004年10月30日)は、小説家、経済学者。本名、古賀英正。東京市出身。「條」は旧字のため南条範夫とも表記される。残酷ものと呼ばれる独特の作品や剣豪小説をはじめ、幅広い歴史小説、時代小説で知られる。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121114