今日日曜に実家へ。

◆今朝から実家へ。朝から、家事、洗濯、掃除に追われる。

◆【成長か、死か〜ユニクロ 40億人市場への賭け〜】(2013年11月17日放送 21:00 - 21:50 NHK総合NHKスペシャル
 ユニクロを展開し年間売上高1兆円と業績を伸ばすファーストリテイリングだが、柳井社長は幹部社員を前に強い危機感を口にした。現在14の国・地域に出店しているが、次の進出先に“世界最貧国”のひとつ・バングラデシュを選び、リスクを招致で賭けに出たユニクロに密着した。バングラデシュでは女性のほとんどはイスラム教の民族衣装を身にまとい、カジュアルウェアを着る習慣がない中、ユニクロバングラデシュで25坪ほどの小さな店の開店準備を進めていた。日本からは5人の精鋭が送り込まれたが、ハンガーが大きすぎるなどの想定外なことも起きていた。また店員は全員バングラデシュ人を採用、日本人担当者が2か月かけてマニュアルを教え込んだ。
 世界各地でアパレルメーカーによる熾烈な競争が繰り広げられている。ユニクロを展開するファーストリテイリングの売上が今年1兆円を超えたが、アメリカのギャップ、スウェーデンのH&M、そしてZARAを擁するインディテックスが売上が上回る。先進国の市場は飽和状態の中、ユニクロは新天地を求めた。
2020年に売上高5兆円とする目標を掲げているファーストリテイリング柳井正社長は、ことあるごとに社員に意識改革を迫ってきた。目をつけたのがライバルが参入を見合わせてきた貧しい国々。ユニクロにとってもリスクの高いチャレンジだが、バングラデシュ進出を前に地元グラミン銀行と提携した。ユニクロバングラデシュ進出を決めたもうひとつの理由は、すでにこの国に多くの縫製工場があること。圧倒的な安さの人件費で各国からも注文が入るが、先進国による搾取との批判もあった。バングラデシュに市場として乗り込んだユニクロ、鍵を握るのはこれまでより安く商品を作ってくれる新たな縫製工場の開拓。山口さんたち社員が「ソフト&ストレッチ」の工場を訪れ検討していたが、作業が遅れオープンまでに間に合わない可能性が出てきた。ユニクロバングラデシュ1号店「グラミンユニクロ」が、なんとか予定通りオープン、開店前から行列ができた。破格の安さを実現した「ソフト&ストレッチ」はぎりぎり間に合い、多くの関心をひいたが、全体の売上が目標を上回った中、比較的高かった「ソフト&ストレッチ」の売上は期待したほど伸びなかった。
 オープン4日後、ラマダンの期間に突入、1年で最も服が売れる時期。しかし商業地との売れ筋を見極めるため住宅地に作られた2号店に、客が来ない事態となっていた。特に戦略商品だった女性服が全くと言っていいほど売れていなかった。ラマダン商戦で女性から絶大な人気を集めているのが地元ブランドの「アーロン」。丁寧な刺繍を施した民族衣装は1点もので高いにも関わらず売れる。タマラ・アベッド社長は、この国ではターゲットにしている客層に合わせることが重要だと指摘した。ユニクロは売上が回復しないまま、テレビ会議で本社に報告する日が訪れた。柳井社長に対し山口さんは売れ筋商品を報告したあと、不振の女性服について報告、柳井社長は女性服だけの専門店や、さらには今の生活習慣で着られる服などを提案、これまでの会社の方針を転換するかのような指示を出した。
 ユニクロは、宇部市の小さな洋服店からスタートし、成長の節目にはいつの大胆な方針転換があった。1998年のフリースの大ヒットによって一躍全国ブランドとなったが、ブームが衰退、しかし苦境を乗り越えるため東レと共同開発した高機能肌着が大ヒットとなった。また海外進出も、2001年に行ったものの赤字が膨らみ縮小を余儀なくされていた。チャレンジを恐れないのが柳井社長の経営方針。ユニクロバングラデシュでの戦略を紹介。バングラデシュの女性の間では、サリーなどの民族衣装が人気で、ほとんどの女性がカジュアルウェアを持っていなかった。幸さんが半年かえけて開発した服は、他の製品と部屋着として売られることとなった。アーロンは民族衣装をカジュアルテイストにし、店でも大人気となった。ファーストリテイリング柳井正社長は、世界の社員に対し経営者としての自覚を持つことを求めている。ダッカにある2号店でのシャハダット店長は、まだ店員をまとめきれずにいた。教育担当の大月さんは、指示の出し方や清掃方法を教育した。柳井社長は夢があれば、厳しくてもやっていけるのではと話した。ユニクロ1号店では、ラマダン商戦の終盤、店に若い女性客が目立つようになった。最終日には、1号店で売り上げ目標を達成した。しかし、2号店は目標を2〜3割下回った。ダッカ市内では、巨大ショッピングモールの建設が進んでいる。ショッピングモール責任者はユニクロZARAが競争することで利益が大きくなるのを期待していると話した。

(11月17日生まれの偉人)
◆本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年明治39年)11月17日 - 1991年(平成3年)8月5日)は、日本の実業家、技術者。本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。
 ・本田宗一郎記念館 http://www.honda-densyokan.com/
<本の紹介>本田宗一郎夢を力に―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫) http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E%E5%A4%A2%E3%82%92%E5%8A%9B%E3%81%AB%E2%80%95%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E6%9B%B8-%E6%97%A5%E7%B5%8C%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E4%BA%BA%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E7%94%B0-%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/453219069X
  本田は「私の履歴書」でこう述べている。「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は 失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」 自動車修理工から身を起こし、一代で巨大自動車メーカーを築き上げ、    「HONDA」ブランドを世界にとどろかせた希有の成功が1%でしかないならば、残りの99%はなんなのか。本田の言葉をたどると、失敗した99%にこそ、た ぐい稀な人間ドラマがあるのであろう。本田が56歳のときに連載した「私の履歴書」と、1962~1991年の足取りをまとめた編著者による「履歴書その後、 さらに「本田宗一郎語録」の3部構成で描きだしている。外国から体中に部品を巻き付けて強引に飛行機に乗り込んだり、四輪自動車への進出を規制する 官僚にたて突いたりといった破天荒なエピソードに満ちあふれている。モノづくりへの情熱や創意工夫、物まねを嫌い独創に賭ける精神、ヒューマニズ  ム、そして天才技術者としての側面など、本田の原点もここに感じ取れる。また、強烈な成功体験をもつ創業者の世代交代問題などのテーマも取り上げら れている。スーパーカブN360などの開発経緯は、ホンダのマシン愛好家にとって見逃せないところだ。この本田の壮大な生涯は、不景気に萎縮するビジ ネスマインドや企業する若者への大きな刺激となるだろう。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121117