今日も実家。

◆今日も実家。このような生活が毎週末の自分の生活である。今日は介護しながら、庭の片づけ。余り動き回らない母親のために、応接間前の庭先に花のあいている蜂を並べる。約3分の一の庭先の草取りを行う。落ち葉と草のヤマ。今週末に穴を掘り、そこに埋めるようにしたい。住宅地のため、燃やすことができずやむなく土に帰すようにしている。

◆2013年11月24日放送 8:00 - 9:54 TBS「サンデーモーニング 」より
(ニュース)
 ・徳洲会から5000万円 猪瀬都知事と食い違い
 徳洲会関係者によると、猪瀬氏は2012年11月、徳田虎雄前理事長に都知事選出馬のあいさつをした。また、徳田毅衆院議員が「猪瀬氏が1億5000万円必要 だ。余ったら返すと言っている」と話すと、徳田虎雄前理事長が「まず5000万円でいけ。議員会館に取りにこさせろ」などと電話で話していたという。し かし23日取材に応じた猪瀬知事は自身から金を要求はしていないと主張。徳洲会側と主張が食い違っている。
 ・スタジオトーク
 寺島実郎は「怒りより悲しみに近い感じ。これはもう信頼の問題。猪瀬さんには納得行く説明をしてもらいたい」と話した。大宅映子は「潔くしてもらい たい」とコメント。目加田説子は「本気でおっしゃっているのであれば知事失格」とコメント。安田菜津紀は「オリンピックが来る中で海外からの目もあ り、非常に厳しい」とコメント。岸田成格は「個人資金というのは苦しい。進退問題に影響するかも。徳洲会使途不明金は政界に流れていると言われて いるが猪瀬さんからくると思わなかった」とコメント。
 ・秘密保護法案 街の声は…
 東京・日比谷で特定秘密保護法案“反対集会”が行われ、約1万人が参加した。那覇市でも“廃案”を訴える集会が開かれ、広島市では抗議の“座り込  み”、仙台市では抗議の“ビラ配り”が行われた。しかし街からは特定秘密保護法案について「知らない」「関心ない」という声も。
 ・スタジオトーク
 特定秘密保護法案について、街の声と問題の大きさには温度差がある。岸井成格は、新聞とテレビの報道の仕方に温度差があるからではと指摘。安田菜津 紀は「政治に無関心な層はスピードについていけないのでは」とコメント。目加田説子は「世論調査では廃案もしくは慎重にという意見がほとんど。内容 を知れば危機意識を多くの人が持つ。もっと時間をかけるべき」とコメント。寺島実郎は「情報公開は世界の常識。この法案で具体的に何が起こるか見え ないところが“よくわからない”になると思う」とコメント。
 ・廃棄となったスパイ防止法 国際ペンも声明発表
 1985年、中曽根康弘首相が国家秘密法案(スパイ防止法案)を国会に提出し、大規模デモが起こった。この法案は自民党内でも反対の声があがり、廃案と なった。世界102カ国の作家でつくる“国際ペン”は戦後初めて「日本政府の“特定秘密保護法案”は、国にとって差し迫った必要でも実際の秘密でも公 益を守るためのものでもない。ただ市民の知る権利と言論の自由を弱体化させ、自らに権力を集中させようとしているものに思われる」と記載している。
 ・スタジオトーク
 特定秘密保護法案についての解説。国が何をしているのかわからない。何が特定秘密にあたるのかわからない、などの点が問題となっている。寺島実郎  は、「守らなければいけない国益について自民党の政治家に考えてもらいたい」とコメント。岸井成格は「これまでも秘密は作られており、それは全て国 家公務員法、自衛隊自衛隊法で守られている。なぜ新しい法案を作るのか聞くと、それは秘密ですと本気で言われる。諜報機関を日本に作ろうとしてい る。それが最大の問題」とコメント。
 ・秘密保護法案 成立急ぐ与党に対し…
 衆・国家安全保障特別委での民主党長島昭久衆院議員の質問の際、与党議員が不在により審議が中断する場面が。一方、日本維新の会・国会議員団・藤 井孝男総務会長は「修正協議について合意した」と発表。修正案には第三者機関の設置検討など盛り込まれた。松野頼久幹事長は、23日(土)の「サタデ ーずばッと」に出演し、「第三者機関作りませんなんて答弁が出たら我々は反対します」と話した。みんなの党は19日、与党の修正案に合意。民主党は海 江田万里代表が「原案では賛成出来ない」とし、国会に対案を提出。与党は26日(火)にも衆院通過させたい考え。公明党山口那津男代表は「我が党の 提案をほぼ受け入れる形で政府与党の合意が出来上がった」と話した。
 ・秘密保護法案と公明党 週明けにも採決?
 公明党大口善徳衆院議員は「国家の安全のために一定の国家秘密を守る必要性は感じている。また、知る権利などが害されないようにする調和を一貫し て追求している」と述べた。また、なぜ今国会で成立させる必要があるのかという問いに対しては「議論を重ねていく中で、精一杯やらせていただいてい る」と答えた。会期末までは二週間足らず。丁寧な法案審議は行われるのだろうか。
 ・スタジオトーク
 目加田説子は「最初から結論、締め切りありきの民主主義の真逆。第三者機関に総理が関与するなど信用出来ない。憲法改正に必要な3分の2をいかに取り 込むかの予行演習をしているかのように見える」とコメント。安田菜津紀は「秘密の範囲がずっと曖昧。知らず知らずのうちに秘密の範囲に踏み込んでし まったらメディアは慎重にならざるを得ない。知りたい知らせたいの循環が悪循環に陥るのがこわい」とコメント。寺島実郎は「アメリカを真似てNSCを 作るならこちらもアメリカを真似るべき。第三者機関に総理が関わるなどナンセンス。せめてそれぐらいやらなくては」とコメント。政府は26日に衆院通 過で参院へ。会期末は12月6日。
 その後の秘密保護法案は、石破発言について(http://blog.tatsuru.com/2013/12/01_0932.php 2013年12月01日 09:32  内田樹の研究室)

(今日の出来事)
・イラン核協議 初の合意。スイスのジュネーブで行われたイラン核協議について、初の合意に至った。今回合意した内容は6ヶ月間という期間を区切った暫定的な措置。イラン側は核開発活動の制限する見返りとして欧米側は経済制裁の一部を緩和するというもの。この中で濃縮度が20パーセントのウランについては製造を停止することや、製造済のウランを中和することなど欧米側の懸念解消にイランが応える形になった。またイラン西部アラクの重水炉も建設を中止するとしている。外交的な交渉での合意は大きな意義がある。課題は今後双方の反対勢力をどこまで抑えられるか。イランは欧米との妥協を拒む保守強硬派の抵抗も予想される。一方アメリカは議会を中心にイランの制裁解除に根強い慎重論がでている。また、同盟国のイスラエルは歴史的な過ちなどと強く反発している。今後の対応が問われることになる。
・「さのまる」大逆転V!ゆるキャラGP初の下克上「家康くん」天下統一ならず。ゆるキャラ日本一をインターネット投票で決める「ゆるキャラグランプリ2013」が24日、埼玉県羽生市で行われた「ゆるキャラさみっと」で発表され、栃木県佐野市の「さのまる」が約120万ポイントで優勝した。途中まで首位を独走していた静岡県浜松市の「出世大名家康くん」を猛追して逆転。中間発表から首位が入れ替わったのは、イベント3回目で初めてとなった。過去最多1580キャラが参加。2日間のさみっとの来場者も約45万人で史上最多となった。ゆるキャラグランプリは、「さのまる」、2位「出世大名家康くん」、3位「ぐんまちゃん」であった。「ふなっしー」は未公認のため、参加できず。でも、「くまもん」はどうなったの?
九州場所日馬富士、意地見せた!白鵬との相星対決制し5場所ぶりV。稀勢の里、13勝以上Vが綱とり条件。

(11月24日生まれの偉人)
◆牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日(文久元年10月22日) - 1949年(昭和24年)1月25日)は、日本の政治家。 明治の元勲大久保利通の次男として鹿児島に誕生するが、一歳の時に養子として牧野家に出されて以後そこで育つ。父利通の遣欧使節団に加えられて渡米、フィラデルフィアの中学に入り、帰国後、のちの東京帝大に入学、中退して外務省に入省した。ロンドン大使館に勤務、憲法調査中の伊藤博文の知遇を得る。
 帰国後、茨城県知事などを務め、文部次官、駐墺大使、駐伊大使などを歴任後、第一次西園寺内閣の文相、第二次西園寺内閣の農商務相、枢密顧問官を経て第一次山本内閣の外相を務める。伊藤博文と近く、従って政友会との絆も深かったが、それ以上に彼は薩派の一員と言え、外務省や枢密院にある程度の影響力を残した。なお牧野の長女雪子は、牧野の外務省時代に吉田茂と結婚している。雪子と吉田は必ずしも反りのあった夫婦ではなかったが、これも一種の牧野の勢力扶植となったであろう(吉田は必ずしも、きわめて優秀な外交官とは言えなかったが、牧野は吉田を選んだ)。
 1919(大正八)年、パリ講和会議に次席全権として出席(首席は西園寺公望近衛文麿吉田茂なども随行)、子爵を授けられてその後は宮中入りして宮相、内大臣を務めて昭和天皇の最側近にあった時期が長く、西園寺などとともに「親英米派」と見られるようになる。内大臣を辞したのは1935(昭和十)年であるが、牧野が御礼言上に参内したとき、昭和天皇はにわかに嗚咽号泣したという。牧野は退官時に伯爵をさずけられる。後任内大臣は、湯浅倉平。
 1936(昭和11)年、二・二六事件の際には湯河原の別荘を決起将兵に襲われるが、看護婦と孫の吉田和子の機転によって救われる。その後昭和天皇のお召に応じて数度参内、戦後には吉田を鳩山追放後の自由党総裁に担ごうとする動きに反対していた。
 さて、牧野は1949(昭和24)年、逝去する。女婿吉田茂の回想に依れば、牧野の最期は、こうである。
「昭和二十四年の総選挙で私の所属した自由党が絶対多数を獲得したので、私は早速お見舞いかたがた報告したところ、非常に喜ばれた。これが私にとって最後の対面であった。死期迫るや、伯はそれを自覚しておられたらしく、丁度孫の一人が枕頭で看護に当っていると、独り言のようにして、『自分は生涯、良心に疚しいことを一度もしたことはなかった』と洩らしたそうで、これがこの世における伯最後の言葉となった。人間一生、良心に恥じる行為をした覚えはないとの確信を以て、この世を去り得るほど、幸福なことはあるまい。伯の死後、殆ど財産らしきものは残っていなかった」。
◆川合 玉堂(かわい ぎょくどう、本名:川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)、1873年明治6年)11月24日 - 1957年(昭和32年)6月30日)は、日本の明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家。
 12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。「玉堂」と号するのは1890年、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。1896年、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)には当初より参加。1900年頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年からは東京美術学校日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年には文化勲章を受章。第二次世界大戦中の1944年に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称する。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。玉堂には長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門ら多くの門人がいた。
 ・河合玉堂美術館 http://www.gyokudo.jp/ http://www.gyokudo.jp/guide.html

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121124

おとなり日記
2013-11-24 森藤 細富美の日記 http://d.hatena.ne.jp/hosofmi/20131124 
2013-11-25 日刊建設工業新聞などの日記 http://d.hatena.ne.jp/a1ahv352305/20131125