「ベストセラー作家を目指すための知恵を獲得する」ための7つのポイント

◆今回は、『印税で1億円稼ぐ』千田琢哉著(http://www.amazon.co.jp/%E5%8D%B0%E7%A8%8E%E3%81%A71%E5%84%84%E5%86%86%E7%A8%BC%E3%81%90-%E5%8D%83%E7%94%B0-%E7%90%A2%E5%93%89/dp/4860636538)から、どうすれば売れる文章を書くことができるのかをまとめてみた。参考になる点が多々あるように思える。でも、実際にはたいへんなものであろう。
 はたして自分にそれだけの才能(『今求められる人間性知能(HQ)とは」http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120116/1326717792)があるかどうか疑問であるが、そのポイントをまとめてみた。
【ポイント】
1.はじめに、プロフィールありき。
 ビジネス書の場合は、読者はプロフィールを一瞥して自分より格上か否かをチェックする人が多い。「この著者から学ぶ価値があるか否か」をシビアに判断されるのだ。年齢・学歴・職歴・実績といった著者の情報を総動員し、自分より格下の相手だと判断されればサヨナラである。これは私が書店で人間観察をしてきた1次情報、読者ヒアリング、出版社の営業経験者との会話から浮き彫りになった事実だ。つまり、内容以前にプロフィールが評価されることが大切である。魅力的なプロフィールを書ける人生を歩むこと。
2.本を出す前に自力で原稿を書いておく。
「本を出すコツはありますか?」という質問は多い。本を出すコツを知る前に、そもそも原稿を持っていない人が多い。「原稿はないけど企画ならあります」と言う人の企画は、たいていつまらない。原稿を書き上げることによって、企画は初めて具体的になるのだ。本を出したいのに、原稿をまだ一度も書いたことがないこと自体、本気ではない証拠だ。処女作は、好きなことではなく得意なことを書く。
3.ブログで相手が読みたくなる内容を書く。
 出版に直結するブログにはコツがある。それは「自分が書きたい内容を書くのではなく、相手が読みたくなる内容をこれでもかというほどわかりやすく書くこと」に尽きる。「本を出し続ける」人生を選択するのであれば、元気で相性のいい中小・中堅出版社がいい。
 私の場合、誰からも相手にされなかった時期は、ブログを書き溜めておくことで精神の安定を保っていた。その結果、ブログがそのまま書籍化されたことはこれまでに一度や二度ではない。編集者の中には、ブログで著者の文章力や魅力をチェックしている人も多い。編集者からこき下ろされたら、「ようやくこっちの側の世界にきたね」と認めてもらえたと小さくガッツポーズしてもいい。
4.発売前の販売促進に注力する。
 出版日までの間は、自分に考えられる販売促進をすべて試してみることだ。ブログで告知したり、お世話になった人に手紙を書いたりするなど今すぐできる当たり前のことをとことんやるのだ。「大きな効果があるかどうかわからないけど、やったほうがいいな」と感じることはすべて試してみることだ発売後に「あれもやっておけばよかった」と後悔するのは最悪だ。どうせなら「あれはさすがにやり過ぎだったな」と後悔したい。発売前の販売促進で処女作の売れ行きはほほ決まってしまう。初版の印税は、すべて販売促進に回す。増刷がかかる前に、第2弾を書き上げておく。
5.直近2年間のベストセラーはすべて購入する
 最低でも直近2年間のべストセラーにはいつも触れておこう。中身を読むのはもちろんのこと、表紙やオビのコピー、紙質とその匂いに至るまでとことんしゃぶり尽くしておくことだ。その際、なぜ売れたのかは必ずしも言語化できる必要はない。断言していいが、べストセラーを出す不変の公式など存在しない。公式には変数があり、変数はその時代の人の気分で左右される。人の気分の集大成が、景気であり経済なのはご存知の通りだ。人の気分の変数を精度高く読解するために、本物に直に触れるのだ。「内容が面白ければ売れる」というのは、甘いのだ。読者は「自分が尊敬できる相手に」面白い内容を教わりたいのだ。
6.「著者」×「編集者」×「営業」で、売れ行きの49%が決まる
 売れ行きは、足し算ではなく掛け算で決まる。「著者」「編集者」「営業」のいずれか1つゼロだと、結果はゼロになる。それどころか、いずれかにマイナスがあれば結果はマイナスになる。これまでの私の経験では、著者の実績に応じて対応する編集者も変更されていく。同じ出版社でも本ごとに編集者が交代することはもちろんのこと、同じ本の執筆途中で編集者が交代したことも一度や二度ではない。有能な編集者であれば、社内での地位も高いから営業も協力する。結果として本が売れやすくなるというわけだ。「売れる本がいい本だ」と割り切ろう。
 作家にとって印税で1億稼ぐのはお金持ちになるためではない。死ぬまで書き続けるスタートラインに立つために1億稼ぐのだ。現在プロとして活躍している人間が、決して口にしない真実がある。きっかけはその道に足を踏み入れるや否や「このくらいなら自分にできないわけがない」と直感したということだ。ある大御所芸人は、まだ駆け出しの頃にカリスマ芸人が運転手付き高級車に乗っているのを見て「あの程度でこんな生活ができるのか、チョロイな」と直感したという。
7.どん底時代の没原稿の山が、売れた後に役立つ
 これは私の経験談だが、べストセラーを出した後に役立ったことはそれまで没原稿として書き溜めていたストックだった。あれだけボロクソに批判された没原稿を売れた後にサッと見せると、掌を返したように「これは面白い! ぜひ、うちでやらせてください」と言われたものだ。「もう他に原稿は残っていませんか?」と催促されることもしばしばだった。この経験を通じても人生に無駄なことは何一つないということを、再認識させられた。
*かなり具体的であり、辛辣な意見のようであるが、まさにこれが売れる本の作りの要素であろう。わたしのような読まれないブログであると、失格であろう。
 出版社の「今年の勝負本リスト」に、滑り込ませてもらう。売れっ子になっても締め切りを守ることが、最高のブランド。

(参考)「大阪ではたらく『作家のプロデューサー』のブログ」http://ameblo.jp/wwbc/entry-11693800470.html

(今日の出来事)
・宮城、岩手で震度4。26日午前0時43分ごろ、宮城県沖を震源とする地震があり、同県と岩手県で震度4の揺れを観測した。気象庁によると、震源の深さは約50キロ、地震の規模(マグニチュード)は4.8と推定される。
・滋賀では死者も 強風で天気大荒れ きょうも警戒。発達した低気圧と前線の影響で、関東や北日本などで雨や風が強まり、交通機関などにも影響が出た。JR東日本によると東海道線京浜東北線などで一時運転が見合わせ、根岸線では停止した電車の中を歩く人々が見られた。また高知・室戸岬では最大瞬間風速33kmを記録、滋賀・東近江市では設置されたテントが飛ばされ男性1人が死亡した。

(11月26日生まれの偉人)
◆山本 権兵衛 (やまもと ごんのひょうえ、旧字体: 山本 權兵衞、1852年11月26日(嘉永5年10月15日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の武士、海軍軍人、政治家。進水式祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称は「ごんべえ」である。海軍大臣(第11・12・13代)、内閣総理大臣(第16・22代)、外務大臣(第37代)などを歴任した。
 戊辰戦争に従軍。明治7(1874)年海軍兵学寮卒業。海軍建設の最大の功労者,「海軍の父」と称せられ,また,薩派(鹿児島県出身者による派閥)の重鎮でもあった。高千穂艦長,海軍省主事,海軍省副官,軍務局長兼将官会議議員,大本営参謀官を歴任。古参将官の整理を主導,海軍の軍制上の諸制度確立に活躍した。31年第2次山県有朋内閣から日露戦争をへて第1次桂太郎内閣まで海相。海軍拡張を進め,戦時大本営条例の改正を通じて二元統帥権を確立,海軍の地位向上に尽くした。また,海相として日露戦争を勝利に導いた。37年海軍大将。40年伯爵。日露戦争は海軍および薩派の重鎮として桂園時代を側面から支持。大正2(1913)年の大正政変後,立憲政友会と結び内閣を組織。行財政整理法案は成立しなかったものの,元老・陸軍・官僚の圧力を排除して軍部大臣武官制・文官任用令の改正を行った。だが,翌3年発覚したシーメンス事件により辞職。その後,12年9月関東大震災直後,再び薩派を母体に後藤新平,犬養毅らと結んで組閣。しかし,東京復興ならぬうちに虎ノ門事件により13年1月辞職した。昭和期には政治的に引退。
 <参考文献>故伯爵山本海軍大将伝記編纂会編『伯爵山本権兵衛伝』(http://www.amazon.co.jp/%E4%BC%AF%E7%88%B5%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B%E4%BC%9D%E3%80%88%E5%B7%BB%E4%B8%8A%E3%80%89-1968%E5%B9%B4-%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%99%BE%E5%B9%B4%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8/dp/B000JA60E6),山本四郎『山本内閣の基礎的研究』,江藤淳『海は甦える』(http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E3%81%AF%E7%94%A6%E3%81%88%E3%82%8B%E3%80%88%E7%AC%AC1%E9%83%A8%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B1%9F%E8%97%A4-%E6%B7%B3/dp/4167366029
◆有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年(明治15年)11月26日 - 1974年(昭和49年)9月15日)は、神奈川県横浜市出身の画家。有島武郎の弟、里見紝の兄。妻の信子は原田熊雄の妹。甥には武郎の実子である俳優の森雅之がおり、1923年(大正12年)に武郎が心中した後は彼の親代わりとなって育てた。志賀直哉http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130220)や児島喜久雄(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20131010)とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島家の女中の恋人を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1946年(昭和24年))を書いて絶交。一人娘の有島暁子は呉茂一と離婚後、カトリックの道を歩んだ。
 ・有島生馬記念館 http://www.ngn.janis.or.jp/~shinmachi-museum/arishima_mem_hall/ikuma_memo_hall.html