松本清張は遅咲きである。清張は亡くなるまで膨大な仕事をした。天職に没頭した人生を送る。山田方谷に学ぶ行政のあり方・・・そして『脱少子化』を目指せ・

備中松山藩(現在の岡山県)で、藩の財政を立て直した山田方谷は、理財論の中で『為政者は全般を見通す識見を持って大局的立場に立て。一事に係らわって全般を見落とすな。』と述べている。これは、山田方谷の理財論の基本的な考え方である。現在、行財政改革といえば、財政の窮乏という、数字の増減、即ち収入の増加と支出の削減をいかにするかということのみにとらわれてしまい、哲学などは財政再建の名のもとに片隅に追いやられてしまいがちである。オレオレ詐欺など、風紀やモラルが荒廃し、教育水準が低下し、社会が閉塞した状態では、いくら財政のそろばん勘定があっていても長続きはしない。逆に、あとで大きな反動が返ってきて、前よりも一層悪い状態に陥ってしまう。厳しい倹約と緊縮財政だけでは、経済が、社会が萎縮してしまう。額に汗して働く国民が報われ、豊かになるよう、いかにして経済に、社会に活力を与えていくかということに心を砕かなければいけない。つまり、国民を富ませ、幸福にさせ、活力のある社会をつくることが必要なのである。まさに、住民の立場に立って財政・税制等の社会制度を考えるということである。そうすれば、おのずと、自然と財政は豊かになるであろう。平成に入り、消費税導入を図るなど、税制改正を毎年行い、税金を徴収し、支出の見直しを図っているが、逆に国債と言う借金が増大し、逆に数十年経過したが一向に良くならず、財政は悪化の一途をたどっている。まさに「失われた20年」といわれる所以である。まさに、国家全体を正しく導いていく者は、大所高所に立った判断をしていくことの必要性を述べているといっても過言ではない。
 ここで、山田方谷について、若干述べると、山田方谷は、幕末期の儒家陽明学者であり、備中松山藩(現在の岡山県)の家老であり、藩政改革において、「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121209/p1)
 理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。
擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり、度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。
1.藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。
2.大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
3.家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
4.多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
5.領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。他藩の専売制とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。
6.これら特産品を、商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の艦船(蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。これによって、中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄も、この航海演習に参加したことがあるという)。
7.藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも藩士へ取立てた。
8.桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。
9.目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。
10.犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。
11.下級武士に対して一種の屯田制を導入し、農地開発と並行して国境等の警備に当たらせた。
12.「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。
方谷は朱子学(とこれを奉ずる幕藩体制)の弱点を、己の欲望を絶とうとする余り、義に適った利までも卑しんでしまい、結果的には正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう点にあることに気付いていた。従って、当時の幕藩体制ではありえなかった、藩(武士)が商業を手がけることに対して非難の声を受けることもあったが、あくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
 行政は、目先の苦境脱出の方法を考えるのではなく、その根本原因を考えなければならない。行政の仕事の場合には、ややもすると、問題の対策を考えがちであるが、根本問題をどう動かすべきか考えることは少ない。いかに住民の生活を豊かにさせ、活力のある社会をつくっていくことが行政の役割ではないか、例えば、これからの都知事選にいsても、勝てる候補を与野党ともかんがえているが、都民のたもに、何をするのか何をしてくれるのかが大事ではないか。防災対策や少子高齢対策は言うもなく、オリンピック後の日本を考え、日本が貧困国にならないように『脱少子化』を目指す政策を打ち出せる人物が不可欠ではないか。

(12月21日生まれの偉人)
◆大西 良慶(おおにし りょうけい、1875年(明治8年)12月21日 - 1983年(昭和58年)2月15日)は、京都清水寺貫主を務め、その晩年は日本の長寿記録保持者としても有名であった北法相宗の僧である。法話を通して,仏教を今に生かす道を,大衆に説き続けた高僧。〈清水(きよみず)さん〉は清水の観音像を指すと共に同師の愛称であった。晩年は〈良慶さん〉と呼ばれ,宗派,宗教を超えて敬われた。幼名は広治。父広海,母咲枝の次男として奈良県多武峰(とうのみね)に生まれる。父は旧姓片岡,妙楽寺智光院の住職であったが,明治の排仏により還俗し大西姓を名のる。15歳で興福寺に入り,唯識を佐伯定胤(さえきじよういん)に学び,25歳で興福寺231代別当,40歳で清水寺住職となり,91歳で北法相(きたほつそう)宗を設立する。
◆松本 清張(まつもと せいちょう、1909年(明治42年)12月21日 - 1992年(平成4年)8月4日)は、日本の小説家。1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。以後、犯罪の動機を重視する作風の推理小説で知られる。ほか、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史に強い関心を示し、『火の路』などの小説作品にも結実した。緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鴎外菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。他の著名作品に『ゼロの焦点』『砂の器』『けものみち』『Dの複合』『黒革の手帖』など。
 ・松本清張記念館 http://www.kid.ne.jp/seicho/html/index.html
 「遅咲き偉人伝(久恒啓一著)から」http://www.amazon.co.jp/%E9%81%85%E5%92%B2%E3%81%8D%E5%81%89%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E2%80%95%E4%BA%BA%E7%94%9F%E5%BE%8C%E5%8D%8A%E3%81%AB%E8%BC%9D%E3%81%84%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E4%B9%85%E6%81%92-%E5%95%93%E4%B8%80/dp/4569793193#reader_4569793193
 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130422/p1
 松本清張(1909〜1992)が作家活動40年の間に書いた作品は、長編・短編を含め、実に1000編に及ぶ。書著は700冊。43歳という遅い出発だったにもかかわらず、この量と質だから、常に「時間との戦い」ということを意識していた。「命の時間との競争だ」といつも言っていた・調べものには厳しかった・緊張感がありいつも真剣勝負だった・「時間がない。他の作家がゴルフなどをやるのは信じられない」と語っていた・自らを奮い立たせた人だった・途方もないエネルギーを持つ怪物だった・「書くことが多すぎる」と語っていた、などのエピソードがある。このように清張には「遅咲き」という意識が常にあり、趣味などには一切見向きもしないで天職に没頭した人生を送った。清張は好奇心が強くあらゆるものに興味を持ち、作品の主題に基づいて形式と表現方法を考えた。清張は「好奇心の根源とは?」との問いに、「疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」と語っている。15歳電気会社の給仕、19歳印刷会社の見習い職人、24歳オフセット印刷所見習い、28歳朝日新聞社九州支社広告版下係、34歳正社員、35歳第24連隊入隊、39歳朝日新聞社西部本社広告部意匠係、そして41歳「週刊朝日」懸賞小説に『西郷札』で三等入選、44歳『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞、東京への転勤を経て47歳で朝日新聞社を退社し、作家活動へ入る。40代後半から、やっと念願の創作活動に専念する。そして49歳「点と線」がベストセラー、52歳所得番付作家部門一位、と満82歳で亡くなるまでの35年間をまさに仕事の鬼となって、良質の膨大な作品群を生み続けた。清張は家庭の経済状況から進学できずに、最終学歴は高等小学校卒だった。学歴による差別を受けると、その落差を埋めるだけの闘志をもって仕事をしていた。「いつかは小説家になろう」と思って本をよく読んだ。それが心のより処だった。酒も控え、趣味も持たず、ひたすら努力を重ねる人生であった。読者の声と自分の誠実さを頼りに仕事に没頭する姿を垣間見る思いがする。
 また、1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。松本清張は44歳で「小倉日記伝」で芥川賞を受賞して世に出ている。清張は遅咲きである。清張は83歳で亡くなるまで膨大な仕事をした。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121221/p2