予想通りの有馬記念。

有馬記念でラストランをむかえた現役最強馬オルフェーヴル。予想通り1着8馬身差の圧倒的強さで勝利。しかし当たらず。投票券を買わなかった。意外と投票券をかわないとこういうものかもしれない。実は、昨日購入するつもりで実家にむかったのだが、途中で買い忘れてしまった。得てしてこういものかもしれにあ。欲を書くと判断が誤るものかもしれない。ギャンブルは私には向かないのかもしれない。そういえば20日に締め切られた年末ジャンボも購入しなかったね。

◆『林先生の誰も教えてくれない日本語』(2013年12月22日放送 15:50 - 17:25 フジテレビ)
 『今でしょ』の林先生が教えてくれる日本語についてのクイズ番組である。たまにはこんな雑学的な日本語も面白いものである。
半沢直樹でも使われた「倍返し」は、贈られたものに対して倍額に相当する金品を返すことを意味している。恩返しと仕返しを混同した結果、倍返しになっていると話した。また、タレントのTwitterから間違っている文を紹介。「すいません」は間違いで、済んでいないのだから「すみません」が正しいと話した。
②問題 これから出てくる日本語をどんな言い方をしていますか?
 ・負けたことのある相手を破って名誉を取り戻す時に使う言葉はなに?との問題が出題。正解は「雪辱を果たす」。「屈辱を晴らす」と間違えやすいのだという。
 ・「うまく問題の要点をつかんだ意見や質問に対して使う言葉はなに?」との問題が出題。正解は「的を射る(いる)」。多くは聞き間違いで「えてる」と覚えているという。
 ・「おいしい料理を食べた時に使う言葉はなに?」との問題が出題。正解は「舌鼓(つづみ)を打つ」だった。
 ・「高熱でうわ言をいう状態をなんという?」との問題が出題。正解は「熱に浮かされる」で全員が不正解。「夢にうなされる」と間違える人が多いのだという。
 ・「一度縁が切れたのに再び恋心が燃え上がる事をなんという?」との問題が出題。正解は「焼けぼっくいに火がつく」。
③誰も教えてくれないエビ
「なぜ芝エビと言うのか?」との問題が出題。正解は「芝浦でとれたエビだから」。続いて「なぜバナメイエビというのか?」との問題が出題され、正解は「ヴァン・ネイムさんにちなんで名付けられた」だった。
④誰も教えてくれない食べ物の名前
・砂町銀座商店街を訪れた林先生は、エビはなんで「海老」と書くのか?との問題を出題。正解は「エビの曲がった形が老人の姿を連想させるから」だった。
・「たらこ」を韓国流に辛く漬けたものが「明太子」の名と共に日本で普及。ちなみに、タラバガニはタラの漁場で多く取れる蟹だから「タラバガニ」と名付けられた。
・「なぜグレープフルーツというのか?」との問題が出題された。「なぜグレープフルーツというのか?」との問題が出題。グレープフルーツが実る姿はブドウにそっくりなため、グレープフルーツと名付けられたのだという。
・「なぜアンデスメロンというのか?」との問題が出題。正解は「安心ですメロン」から来ているのだという。
⑤誰も教えてくれない東京
・誰も教えてくれない東京
東京・浅草を訪れた林修は「浅草の名の由来は?」との問題を出題。海辺に浅い草が生い茂っていた事から「浅草」と呼ばれるようになったのだという。
「浅草と浅草寺でなぜ読み方が違う?」との問題が出題。正解は「お寺の名前は基本的には音読み」だからだという。
・「江戸前の前は何の前?」との問題が出題された。正解は「江戸の前面の海を指している東京湾のこと」だった。あなごと蛤ははいるが、うにははいらいない。
・「山手線の正式名称は?」との問題が出題。正解は「山手線」だった。戦後のマッカーサー占領によるローマ字表現が原因。誤表記がもとで「やまのてせん」と「やまてせん」が混在してしまったのだという。今は「やまのてせん」に統一してた。

(12月22日生まれの偉人)
◆高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日(1764年12月22日) - 享和4年1月5日(1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者。字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門。子に天文学者伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保天保改暦を主導した渋川景佑がいる。江戸中期の暦算家。東岡または梅軒と号した。作左衛門はその通称。大坂の定番同心の子に生まれ,家は微禄で生活は苦しかったが算数暦算を好み,麻田剛立の門下に入って,その一の弟子となった。中国の暦法は中身は耶蘇会士の西洋天文学によっていることは,将軍徳川吉宗のときにわかっていたが,宝暦の改暦にそれを盛り込むことに失敗した。寛政7(1795)年に改暦の議がおこり,その仕事は麻田剛立学派に委嘱され,結局高橋至時が代表責任者となり,天文方に任命され,俸禄100俵を賜った。門下の盟友間重富の協力で寛政改暦は成功したが,彼には次の目標があった。 それは,漢訳天文書ではなく,西洋語で書かれた天文学を直接輸入しようというテーマである。それには蘭学の知識が必要である。そこで独学でフランスの天文家ラランドの蘭訳書にとりかかった。のめり込みすぎて肺患がひどくなり,41歳で浅草天文台に没した。残されたノート『ラランデ暦書管見』をみると,蘭語はあまり強くなかったが,専門的なことは理解できた。ただニュートン力学には歯が立たなかった。しかし,伝統的な暦算天文学では日月の運行が中心であったのを,惑星の運行にも興味を寄せている点では,西洋の天文学者の感覚に近づいた最初の天文家であった。高齢(51歳)で入門してきた弟子の伊能忠敬の学力が落ちる点にハラハラしながら,指導して全国測量を完成させた。
◆大槻 文彦(おおつき ふみひこ、1847年12月22日(弘化4年11月15日) - 1928年2月17日)は、日本の国語学者明六社会員。帝国学士院会員。本名は清復。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名で、宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名である。

<本の紹介>
司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像 (集英社新書)  http://blog.livedoor.jp/tsukin_book/

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121222/p1