今日から年末年始休暇に突入。9連休である。

◆百田直樹原作で山崎貴監督映画「永遠のゼロ」から。
 「あまりにも素晴らしい小説と出会い、対抗心が生まれ」て山崎監督は「映画でしかできない表現をたくさん使って、原作と戦いたい」と考えていたようである。その心意気が「今までと違うタイプの戦争映画」を実現させた。山崎監督は1964年生まれで、コンピュータグラフィックによる高度なビジュアルを駆使した映像表現・VFX(Visual Effects)といわれるビジュアル・エフェクツの第一人者。「ALWAYS 三丁目の夕日」の昭和の町並みをVFXで表現し話題になった。零戦の空戦の様子などは実際に飛んでいる感じを観客は共有できる映像となっている。
 主演の岡田准一は来春の大河ドラマ軍師官兵衛」で主人公官兵衛を演じるようだが、昨年の映画「天地明察」での好演技を覚えているが、歴史が好きで多くの本を読んでいるし、身体能力が抜群であり、かつ演技力が高いという稀有な存在になっているようだ。原作者・百田尚樹(1956年生まれ)の小説は、処女作で関連本を含めて400万部を突破するベストセラーとなった。百田は語る。「誰のためにいきているのか、何のために生きているのか。宮部久蔵はそれを知っていた男なんです。」ライターの姉と司法試験浪人の弟の二人で祖父であった零戦パイロット宮部久蔵の足跡を物語だが、宮部を知る男たちの演技が、宮部への憎しみと尊敬を語る中で、彼らのその後の人生の深みを感じさせて印象に残る原作では宮部を追う長い時間の後に、祖父の生き方と人物に影響を受けて、姉は朝日新聞記者と思しき人の求婚を断り、好きだった人と結婚を決意する。そして弟は無気力状態から脱していく。映画ではそこは描かれてはいないが、生きていることの素敵さを感じさせ、人々に勇気を与える。小説とは違った味わいのある作品である。
 ストーリーから、今は2013年。1945年の終戦から68年が経った。 当時の記憶が残っている「戦争経験者」は、1940年代に10歳以上だったとして、今は少なくとも皆、80歳以上となっている。原作者の百田先生が言うように、あと10年もすれば、戦争を経験した人間はほとんどいなくなる。そんな今だからこそ、戦争について考える意味がある。ジブリ映画零戦開発者の堀越二郎の生涯を描いたのが、映画「風立ちぬ」である。
 時は2004年。佐伯健太郎は、あることがきっかけで太平洋戦争で戦死した祖父・宮部久蔵について調べ始める。宮部久蔵は海軍随一の天才パイロットであり、海軍一の臆病者と呼ばれていた。予告編にもあるように、宮部はことあるごとに、「私は死にたくありません」と言い、部下には、「どんな苦しいことがあっても、生き延びる努力をしろ」と叫んだ。日本史の教科書で「欲しがりません、勝つまでは」とか、「国家総動員法」とかが太字で書かれてるような異常な時代である。
「国家のために命を懸ける」ことが美徳とされ、国のために死ぬことが当たり前とされた時代だ。 国家のために命を捧げることは、軍人の誇りでもあった。そんな中、「私は死にたくありません。必ず、生きて帰る」という宮部は海軍でも異端だった。死んでも帰る。家族のために。必ず。松乃を、そして生まれたばかりの清子を守るために。「必ず、生きて還ります」それが、宮部が妻に残したたった1つの約束。しかし、宮部は特攻を選んだ。 1勝9敗ではない。特攻は100%敗け、100%死ぬる映画だった。家族といられる喜びを、改めて考えるきっかけになるような作品だった。

◆『証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 そして“自民一強”に』(2013年12月22日放送 21:00 - 22:15 NHK総合NHKスペシャル
 内閣提出法案成立率は87%に上昇し、自民一強となる一方、特定秘密保護法案を巡っては採決が強引との批判もある。臨時国会を終えた安倍晋三内閣総理大臣は、国民との信頼の基盤を作ることを大切にしたいと話した。民主党野田佳彦内閣総理大臣は、非自民の挑戦の挫折について残念と語った。小沢前民主党代表や森元内閣総理大臣、細川元内閣総理大臣らも政権の難しさを話した。
 民主党野田佳彦神戸学院大学を訪問し、学生らの質問に答えた。昨年12月の衆院選民主党は大敗し自民党に政権を渡した。野田前内閣総理大臣は分裂劇について民主党にとっては残念な事だと話し、小沢前代表ももっと知恵をだすべきだったと振り返った。2011年野田内閣が発足。野田前内閣総理大臣は英経済誌オバマ大統領とメルケル首相が和服を着た表紙の雑誌で、決断しない状況を日本化と例えた記事を見て深刻さを実感したと話した。藤井元財務大臣は2009年、総理になった野田に一旦決めた以上はぶれてはいけないとアドバイスしたという。吉田茂元首相や岸信介元首相、佐藤栄作元首相らも出来るのはただ一つだと話した。2011年の党首討論では消費税増税を巡る協議が行われ、谷垣禎一総裁は野田総理に対しすぐには賛同しなかった。谷垣は当時、自民党マニフェストにない消費税増税を訴えた際、衆議院を解散し政権奪還のチャンスだと考えていた。大島副総裁は政権奪還の戦略を立て、解散・消費増税・分裂の3つを目論んだ。
 そういえば、10月中旬の期限まで1カ月もない。国家戦略相の菅は焦りまくっていたという。そこへ当時の財務省主計局長、勝栄二郎(現事務次官)が“悪魔のささやき”をする。政権発足10日後、2009年9月25日のことだ。骨太の方針をつくる必要はない。衆院選マニフェストに沿った形でA4の1枚を出してもらえれば、年内予算編成をやり遂げます」勝がこう持ちかけると、菅は肩の荷が下りたようになって、その提案に飛びついたというのである。断っておくが、マニフェストには政策の工程表は書かれているが、優先順位は書かれていない。財源が限られているのに、何を優先するのか。それこそが政治主導の一丁目一番地なのに、菅はあっという間に財務官僚の軍門に下ったのである。その時の会合に同席していた津村啓介内閣府政務官は番組内で、当時を振り返り、こう言っていた。「菅さん、1週間で主計局長のワナにはまっちゃったのかな、と」何のことはない。政権発足直後に、民主党の政治主導は終わっていたのである。
 もうひとつ驚いたのは、鳩山政権が退陣に追い込まれ、代表選に出馬した菅が「小沢さんには少し静かにして欲しい」と脱小沢宣言をしたときのことだ。当時の筆頭副幹事長で小沢側近の高嶋良充・前参院議員は脱小沢宣言は方便だと思っていたと言う。小沢もそう信じていたそうだ。「脱小沢で人気を急上昇させて、選挙を勝つ。そういう工作だと思ったし、小沢氏も自分をエサにして、選挙に勝てるならそれでいいと言っていた。それで菅首相が鯛を釣れるなら、喜んで海老になると……」(高嶋氏)前出の津村も同じように感じていて、だから、菅に記者会見で脱小沢を言う前に、小沢への根回しを進言したと証言した。「(小沢氏と)会う段取りをつけてから言った方がいいのではないですか、と申し上げた」(津村氏)ところが、菅はこれを無視し、あろうことか、唐突に消費税増税をぶち上げるのだ。その理由もよく分からない。番組では「(選挙が)厳しいのは分かっていたが、いくら叩かれてもやり抜こうと思った」なんて、寝言を言っていたが、これを境に民主党トロイカ体制は崩れ、党内対立が激化していく。番組では自民党森喜朗・元首相も出てきて、「小沢氏が数を握っていれば、政界再編になる」と考えていたことを吐露。以後、民主党政権は野党にいいように引っかき回されていくのである。番組を見た政治ジャーナリストの角谷浩一氏はこう言った。「番組を見れば、民主党のテイタラクは、予算編成ができずに焦っていた菅前首相が財務省に魂を売った瞬間に始まり、その延長線上に消費税増税があったことがよく分かったと思います。その年の予算編成は、財源が工面できず、最後は小沢幹事長(当時)が出てきた。番組には小沢シンパの議員も数多く登場した。このタイミングでNHKがこのような番組を報じたのは意味深です。最近、政権批判のトーンを強めている小沢氏の復権と無関係ではないと思います」
 自民党の標的でもあった小沢一郎は1993年の細川内閣発足を仕掛け、自民党から政権を奪った。消費税増税を実現するため、野田は谷垣への接近をはかった。谷垣は当時を振り返り、野田と目指している方向にそう違いはなかったと話した。谷垣は党首討論後、野田と小沢の直接会談が行われ、小沢は地域主権の確率を条件に野田に賛成する意見を示していた。しかし、二度目の会談で小沢はけりがつけられなかったと話し、議論にならなかったと振り返った。2012年の衆院選本会議で、消費税率引き上げ法案で自民党は民主公明との合意を受け、賛成票を投じた。野田は小沢らを除籍し、小沢は党を離れた。
 野田佳彦氏が国会議員になったのは今から20年前の1993年でこの年は衆議院選挙で非自民が躍進し、38年間続いた自民一党支配が終焉した。野田氏も政治家を目指し松下政経塾で学んでいた頃から自民党への対抗心を燃やしていた。野田氏が初当選した選挙では134人の新人議員が生まれ26人にとどまった自民党の新人議員だったが、その1人が安倍晋三氏だった。この20年自民と非自民が繰り広げてきた激しい攻防は、非自民勢力の中で力を蓄えた民主党が4年前政権を奪取し、去年自民党が奪い返した。その時政権を争ったのが野田氏と安倍氏だった。消費増税を巡る攻防が繰り広げられていた頃、東京谷中の禅寺には安倍晋三がいた。安倍晋三は戦後最年少の52歳で総理となったがわずか1年で退陣した。総理を辞めたばかりの安倍を座禅に誘った自民党山本有二氏は、当時安倍は憔悴していたと話し、住職の言葉では座相がよくないと言われていたと語った。安倍晋三は再び自民党総裁を目指すこととなったきっかけは、4年前の衆議院選挙だったと話した。この選挙では自民党が大敗し民主党に政権を奪われたが、安倍は地元の強い支持を受け圧勝し、失っていた自信がよみがえったと語った。そして復活のためには何が必要か、安倍は第一次政権の反省を踏まえやるべきことをノートに記していた。ノートに記してきた復活への戦略の1つが2年前から参加している勉強会で学んだことだった。安倍を勉強会に誘った自民党山本幸三は、経済の安倍で売り込まなければ復旧はできないと声をかけていた。そこで打ち出した政策が大胆な金融緩和だった。安倍に金融緩和を指南したのは、中原伸之で日本銀行の政策決定にも携わった金融政策のプロである。安倍は政権を取りこの政策を進めていけば間違いなく日本の経済は大きく変わると確信をしていたと語った。
 去年2月大阪市内の店を訪れた安倍と待ち合わせたのは大阪維新の会・幹事長松井一郎だった。大阪ダブル選挙で橋下徹などが当選し、のちに2大政党に対向する第3党として国政に進出する大阪維新の会は、安倍を党首として迎え入れる用意もあったと松井一郎が話した。維新との窓口となった、安倍の側近・内閣官房長官菅義偉は、注目を集める維新とのパイプは安倍への期待に繋がると考えたと話した。安倍は民主党政権に対しては、消費増税で協力するよりもまず打倒すべきだと考えたと語った。
 消費税率引上法案について紹介。過去に共に成立を目指していた当時、民主党の野田元総理と自民党、谷垣総裁だったが、2012年の夏に自民党内で解散時期を明言しない野田に谷垣が直接対談に乗り込み解散時期を迫ったが、野田は2つの選択肢として「近い将来、近いうち…」と掲示し谷垣は「近いうち…」という表現でと言葉も決まった事が伝えられた。当時、2人の会談後に対談した公明党代表山口那津男は、当時は緊迫した雰囲気を感じた、近いうちという言葉は曖昧だと感じ、曖昧さを追及したが返答は同じであったと答えていた。また当時、自民党の副総裁だった大島理森は、もう少しハッキリ言って貰わないとダメだと納得させたと述べていた。その後、自民党公明党の協力で可決された。
 近いうちと解散の約束をしていたが、当時の民主党内の実情が紹介。当時、幹事長だった輿石東は、解散出来るものじゃないでしょと発し、党内でも解散は先送りにした方が良いと意見が出ていたと発表。また、藤井裕久財務大臣も1年先にしないと負ける可能性が高いと野田に通告した事を語っていた。また、野田を解散に追い込めない谷垣総裁についても党内で批判の声が上がっていた。当時、自民党の副総裁だった大島理森も、解散させられなかった、結果が出てないと反省の言葉を述べていた。2012年8月15日終戦の日安倍晋三靖国神社を参拝。この日の夜、安倍は側近の菅義偉自民党総裁選について話し合い、立候補の決意を固めた。一方、執行部でも谷垣禎一に対抗する動きがあり、自ら幹事長に抜擢した石原伸晃が総裁選に意欲を示した。大島理森副総裁が谷垣と石原の間に入って一本化を図るも議論は平行線。谷垣は古賀誠に協力を求めたが、党運営の不満を理由に断っている。告示4日前、谷垣は総裁選立候補を断念した。自民党総裁選。国会議員による決選投票で、安倍晋三石破茂を下して新総裁に選ばれた。民主党との協力を進めた谷垣禎一から、打倒民主党を訴える安倍へバトンが渡された。自民党の重鎮・森喜朗は選挙の結果について、一旦党を離れた石破より、自民党を貫いた安倍の求心力が勝ったと分析した。
 20年前に初当選した野田と安倍は非自民と自民を貫き2大政党の党首として対峙することになった。安倍は2012年10月31日の衆議院代表質問で早速野田を厳しく攻め立てた。解散はいつなのかに注目が集まる中、野田の足元は揺らいでいた。民主党では選挙の苦戦を見越し、離党者が続出。さらに日本維新の会などの第三極の動向にも野田は神経を尖らせた。そんな中で迎えた2012年11月14日の安倍との党首討論で野田は起死回生を狙った勝負をしかけ、12月16日に解散することを宣言した。これに対して安倍は「解散は予測していたが16日の解散は予想外だった」と話した。野田は解散日を指定したことの狙いについて「追い込まれつつある中で逆に迫るものがあるということは1つ攻めていくきっかけになると考えた。党首討論は見える。見える中で2大政党が大事な約束を交わすということはとても意味がある」と話した。政権交代をかけた決戦の時。安倍が打ち出したのはかねてから温めてきた経済政策のアベノミクス。今の選挙制度が導入されてから最も多い12政党が乱立した選挙戦。非自民勢力は票を奪い合った。自民党は300議席に迫る圧勝をし、安倍は政権を奪還した。更に7か月後の参院選でも経済政策の実績を訴え大勝。ねじれを解消し自民1強を作り出した。野田は自らの決断が民主党の大敗を招いたことについて「評価は歴史に委ねたいが政策実現については全く悔いはない。しかし、2大政党制を崩してしまった責任は私にある」と話した。
 安倍総理はデフレ脱却を掲げ、アベノミクスで、株価は回復している。菅内閣官房長官は、国民と会話しなが進めていると話した。また、安部総理はバーレーン王国クウェートへ訪問し、インフラ輸出を後押しするトップセールスを行っている。安倍総理は保守的な政策にも踏み出し、国家安全保障会議特定秘密保護法の実現の先に集団的自衛権行使の容認と憲法改正を見据えている。特定秘密保護については、民主党海江田万里日本共産党志位和夫らがが反対した。菅内閣官房長官は野党から一党でも理解してもらいたかったと話した。
安倍と菅は日本維新の会みんなの党に狙いを定めた。11月中旬、東京・赤坂で安倍と菅はみんなの党渡辺喜美と会談し、みんなの党は与党と法案修正で合意した。合意翌日には日本維新の会橋下徹らも概ね合意した。安倍政権の働きかけで、反発したみんなの党の14人が離島し、江田憲司率いる結いの党など新党が発足した。
 12月7日、東京・谷中で安倍は禅寺通に訪れた。自民党内からの批判もあり12月の内閣支持率は10ポイント下がった。安倍総理はデフレ脱却を掲げ、残りの期間で日本を正しい方向へ導いていくために政治家が落ち着いてやらなければならないと話した。生活の党・小沢代表ははっきりした主張と政策を掲げられる集団があれば、政権交代は十分可能と述べた。細川元内閣総理大臣政権交代を繰り返すしか無いと話した。森元内閣総理大臣は、政権は自らの仲間から引っ張られて潰れるため、必ず自民党を追うものが出ると話した。谷垣前総裁は、野党であっても責任を持つべきと述べた。公明党・山口代表は、二大政党に無理矢理集約するのは限界があると話した。野田前総理は、ある程度政権が続けられる状況になって初めて完成形に近づくと話した。安倍総理は今後は政策ごとに判断するのが正しくなるのではと話した。あるいは、党内分裂、民主党政権の瓦解を見越して、遠慮なく政権批判をするようになったのか。

(今日の出来事)
・野中元官房長官 秘密保護法の成立を批判。野中広務官房長官は、秘密保護法の成立を批判した。TBSの番組内での発言で「公約に出てない問題を最大の問題として今国会で成立を強引にやったのは、政党政治の基本からいって恥ずかしいことだと思う」と述べた。
東京都知事選挙 宇都宮健児氏が立候補へ。猪瀬直樹氏の辞職に伴う東京都知事選挙に、宇都宮健児氏が立候補する意向を固めた。宇都宮氏は弁護士としてオウム真理教事件の被害者救済や多重債務問題に取り組んできて、2010年からは2年間にわたり日弁連会長を務めた。前回の都知事選でも無所属で立候補し、猪瀬氏に次ぐ約97万票を獲得している。きょう講演会で出馬を表明するとしており、年明けには正式に記者会見を開く予定とのこと。今回の都知事選での出馬表明は宇都宮氏が初めてで、他の政党は年末も調整を続け、候補者の決定は年明けになる見込み。
・成田空港 出国ラッシュもピーク 。成田空港では、出国者が今日だけで約5万人、年末年始で約65万人となるみこみで、今年は長距離方面が人気。帰国は1月4日がピークと見られる。そして帰省ラッシュ ピークに。年末年始を故郷などで過ごす人たちの帰省ラッシュがきょうピークを迎えた。東海道新幹線下りの乗車率はのぞみで100%〜150%、東名高速道路では綾瀬バス停付近を先頭に12km、豊川IC 付近を先頭に17kmの渋滞となっている。
・今季一番の寒気 日本海側で大雪に警戒。山形市で19センチの積雪があった。兎和野高原で24時間降雪量は73センチにのぼった。29日の6時までに北緯陸で70センチの降雪量が予想される。
・年の瀬を迎えて、各地で年越しの準備が行われている。神奈川・三浦では、三崎まぐろ祭が始まった。青森・弘前では今年最後のリンゴの止め市が行われ、サンふじが去年を上回る価格で取引されていた。青果市場の葛西静男常務は美味しいリンゴが出来たと語った。千葉・成田の成田山新勝寺では一年に使った御札を燃やす「納め式お焚き上げ」が行われた。さらに松江では大学生の就職説明会が行われたと紹介した。

(12月28日生まれの偉人)
◆郡司 成忠(ぐんじ しげただ/なりただ、万延元年11月17日(1860年12月28日) - 大正13年1924年)8月15日)は、日本の海軍軍人、探検家・開拓者。小説家幸田露伴http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130822/p1)、史学者幸田成友の実兄。郡司家へ養子入り。明治5(1872)年海軍兵学寮入り。8年千島樺太交換条約締結後,ロシアに対する脅威から北方の警備防衛,千島開拓の志を抱く。海軍大尉まで進んだが,自らの志の実現のために同26年予備役となる。報效義会を設立、千島探検に乗り出し、陸軍中佐福島安正のシベリア単騎旅行とともに話題となった。同年に捨子古丹島,占守島に渡り,十数人で自然環境や拓殖方法を調査。29年家族らと共に占守島に移住,漁業を中心とした拓殖活動を行う。日露戦争開戦後,カムチャツカへの進撃を試みたが失敗し捕虜となる。戦後はロシアから獲得した漁業権益発展のため,沿海州水産組合長を務めた。<参考文献>広瀬彦太『郡司大尉』,原暉之『シベリア出兵』
 ・郡司成忠 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/266.html
◆井植 歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本の実業家。三洋電機株式会社の創業者。松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)の創業メンバーで、元専務取締役。
 大阪で義兄松下幸之助を補佐して松下電器製作所の創業にくわわり、昭和10年松下電器産業(現パナソニック)専務。22年独立して三洋電機製作所を設立。25年三洋電機に組織替えし,社長に就任。電気洗濯機,ラジオをはじめとする家庭電化製品の量産と普及に成功した。
 ・公益財団法人井植記念会 http://www.iuekinenkai.or.jp/
◆堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、昭和初期に活躍した日本の作家。東京出身。それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした作家である。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。
 軽井沢で療養中に関東大震災で母を失う。東京帝国大学に入ると、中野重治と同人誌「驢馬(ろば)」を創刊。1930年(昭和5)「聖家族」で文壇デビュー。軽井沢の療養所で婚約者を失った経験をもとに書かれた「風立ちぬ」では、純粋な愛と生命の美を描いた。ほか代表作に「美しい村」、「かげろふの日記」、「菜穂子」など。戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀辰雄の作風は、後進の世代の立原道造中村真一郎福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。戦争末期からは結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送り、48歳で死去した。
 ・堀辰雄文学記念館
 http://www.town.karuizawa.nagano.jp/ctg/01613100/01613100.html
◆石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本の俳優、声優、歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレント、実業家・ヨットマンとしても活動していた。身長183cm、血液型はA型。愛称はタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー。石原軍団総帥、石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。

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