今日は大晦日。今日で今年も終わり。

◆今日は大晦日。とうとう1年間継続してブログを作成。ちょうど1年3カ月である。良く継続できたものである。でも、今日の偉人はなぜか女性二人。来年の日本は女性の時代かな。そういえば、今年来日したアメリカ大使もケネディさんという女性。来年2月に予定されている知事選の候補に、女性官僚が噂に上っているようだが。

◆「信長 秀吉 家康―勝者の条件敗者の条件」(津本 陽、江坂 彰著 http://www.amazon.co.jp/%E4%BF%A1%E9%95%B7-%E7%A7%80%E5%90%89-%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E2%80%95%E5%8B%9D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E6%95%97%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9D%A1%E4%BB%B6-%E6%B4%A5%E6%9C%AC-%E9%99%BD/dp/4062081563)から
<アマゾン内容の紹介>
 混迷の時代を切り開く戦い方がある!人をどう育て、どう率いるか、組織をどう動かし、戦いをどう仕掛けるか?天才・信長、器量人・秀吉、政治家・家康──歴史小説の第一人者と、経営戦略論のエキスパートが、戦国三英雄の発想と行動を解き明かす!
<ポイント>
・リーダーとは、自らの進むべき方向にグランドデザインを持っていること。そしてそれを持続する意思があること。世界の流れをとらえる鋭い嗅覚があり、それに向って返り血を浴びるのを覚悟で進んでいく人である(p31)
・信長の戦法でまず挙げるべきは「情報」の重視である(p39)
 ・日本のいやな面だが、織田信長の如く、絶対に傑出したリーダーは、やはり最後まで生き残れないのですね(p83)
・ある面では、美濃兵のように土に密着した侍というのは戦闘そのものが強い。信長の場合は、兵農分離させ、金で雇った兵隊だから、忠誠心もねばりもない。しかし、長期戦となればべつ。兵農分離しない限り、自らの領国以上に広がっていくには限界がある(p97)
武田信玄の七分勝ち。百パーセント勝ってしまうと己に油断が生まれるまた百パーセント完勝すると相手に味方するものの恨みを買う。だから勝利は七割ぐらいがよろしい(p203)
 ・サラリーマンで偉くなりたい人にはやはり、秀吉。特にサラリーマンで、大組織で偉くなっていくために一番大事なのは、人間関係をうまくやること、いい上司と出会えることだから、それには秀吉がぴったりです(p233)
アメリカの自由でダイナミックな規制は、これだけはやったらいけないという規制である。日本の規制は、これだけをやりなさいという規制である。(p235)

(12月31日生まれの偉人)
◆津田 梅子(つだ うめこ、1864年12月31日(元治元年12月3日) - 1929年(昭和4年)8月16日)は、明治の教育者。日本の女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(津田塾大学)創立者。明治4(1871)年日本最初の女子留学生として岩倉遣外使節団と同じ船で渡米、船中で満7歳の誕生日を迎える。ジョージタウン(現ワシントンD.C.)のランマン家に約11年滞在,ピューリタンの気風の中で育ち受洗。文学,美術の薫陶を受ける。15年帰国。同時に留学した親友山川捨松,永井繁子が相次いで結婚するなか、愛なき結婚を拒み,女性の教育を天職と決め,約3年間の待機の末,18年華族女学校創立と同時に伊藤博文の推薦で英語担当教授となる。22年より3年間米国ブリンマー大学に留学,生物学を修める。31年アメリカ経由で渡英、女子の高等教育機関を視察、オックスフォード大学で英文学,倫理学などを受講。33年華族女学校を辞任、良妻賢母が標榜されるなか「知性と性格の力を備え,自分で思考できる女性」を育てる目的を掲げ、女子英学塾を開校。英語教本,教材の出版のほか、アメリカの新聞に日本の女性と教育を論じた記事を多数寄稿。また都合5回の米・英滞在を通じ国際交流に貢献した。武士の娘の誇りとキリスト教の奉仕の精神を終生持ち続け、自らの経験を生かし日本女性の知的解放に尽くした。
 <参考文献>古木宜志子他編《The Writings of Umeko Tsuda》(改訂版),吉川利一『津田梅子伝』,山崎孝子『津田梅子』,Furuki 《The White Plum: A  Biography of Ume Tsuda》,古木宜志子『人と思想・津田梅子』
津田塾大学 津田梅子記念交流館  http://koryukan.tsuda.ac.jp/
◆林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年)12月31日 - 1951年(昭和26年)6月28日)は、日本の小説家。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。行商人の子として貧困の幼少期を過ごす。暗い生活を日記体で綴った小説「放浪記」でデビュー。以後、昭和6(1931)年「風琴と魚の町」「清貧の書」、昭和9年「泣蟲小僧」、昭和10年「稲妻」等を発表、日中戦争勃発後は中国・東南アジアの各地に赴き従軍作家として活躍。敗戦後には、「うず潮」を昭和22年(1947)年に、23年には「晩菊」、24年「浮雲」「茶色の眼」などの作品を次々にと発表。昭和26(1951)年過労のために急逝。暗い現実と人間の苦悩を生々しく描き、流浪する虚無的な詩情を漂わせる作風が特徴。
・新宿区立 林芙美子記念館 http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=12
林芙美子文学碑 http://www.kameyamagu.com/bungakuhi.htm
林芙美子記念館http://www.geocities.jp/tokyo_saunterer/a060103.htm
・おのみち 林芙美子記念館  
http://www.ononavi.jp/sightseeing/literature/detail.html?detail_id=191
◆俵 万智(たわら まち、1962年12月31日 - )は、日本の歌人。結社「心の花」所属。所属事務所は東京コンサーツ。父は希土類磁石の研究者の俵好夫。大阪府北河内郡門真町(現門真市)生まれ、同四條畷市福井県武生市(現・越前市)育ち。福井県立藤島高等学校に入学し、演劇部に所属した。早稲田大学第一文学部に入学、日本文学を専修した。在学中から短歌を作り始め、佐佐木幸綱に師事。1985年(昭和60年)に大学を卒業すると、神奈川県立橋本高等学校の教諭として働きながら発表した『野球ゲーム』で第31回角川短歌賞次席。受賞は米川千嘉子に譲るも、その奔放で斬新な表現が歌壇の話題をさらった。翌年、『八月の朝』で第32回角川短歌賞を受賞。同年の次席は穂村弘であった。1987年(昭和62年)発行の第一歌集『サラダ記念日』は歌集としては異例の大ベストセラーとなって社会現象を引き起こし、ライトヴァースの旗手として口語短歌の裾野を一気に広げた。日常会話で使われるカタカナを巧みに使い、親しみやすい歌風は多くの人々の心を掴んだ。また2003年(平成15年)より初の小説『トリアングル』を読売新聞に連載、阿木燿子監督の『TANNKA 短歌』として映画化された。2006年(平成18年)より宮城県仙台市に住んでいたが、2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の発生を受け、沖縄県石垣島に移住した。


<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121231/p1