山田方谷への旅。でも現実は週末介護ですね。そして『風をよむ・・・集団的自衛権。日本の進むべき道は。』

◆改革を短期間に成し遂げたのが、幕末備中松山・板倉藩の陽明学者・山田方谷である。江戸にて佐藤一齋に学び、佐久間像山と毎夜激論を交わしたほどの人物である。備前松山に帰藩してからは、当時貧乏板倉藩と言われていたのを立て直し、藩全体の雰囲気も一新させた。越後長岡藩河井継之助が傾倒したほどの人物でもある。この山田方谷が「理財論」と言われる名論を表している。この「理財論」を安岡正篤さんが解説している。(「先哲講座」安岡正篤著から)それによれば、
●財にとらわれれば小さくなる
 『理財の密なる、今日より密なるは無し。而して邦家の窮せる、今日より窮せるはなし、�祐畝の税、山海の入、關市舟車畜産の利は、毫糸も必ず増す。吏士の俸、貢武の供、祭祀賓客興馬宮室の費は、錙銖も必ず減ず。理財の密なる此の如し、且つ之を行うこと数十年、而も邦家の窮は益々救うべからず。府庫洞然として積債山の如し。豈(あ)に其の智未だ足らざるか。其の術未だ巧ならざるか。抑々所謂密なるが尚疎なるや。皆非なり。夫れ善く天下の事を制する者は、事の外に立つて、事の内に屈せず。しかるに今の財を理(おさ)むる者は、悉(ことごと)く財の内に屈す。蓋(けだ)し昇平已に久しく、四彊虞(おそれ)無し。列侯諸臣、坐して其の安を享(う)け、而して財用一途、独り目下の息と為る。是を以て上下の心、一に此に鍾(あつ)まる。日夜営々、其の息を救わんことを謀つて、而して其の他を知ること莫し。人心日に邪にして、而して正す能わざるなり。風俗日に薄くして、而して敦うする能わざるなり。官吏日に汚れ、民物日に弊れて、而して検する能わざるなり。文教日に廃れ、武備日に弛みて、而して之を興し之を張る能わざるなり。挙げて焉(これ)を問う者有れば、乃ち日く、財用足らず、奚の暇あつてか此に及ばんと。鳴呼此の数者は経国の大法にして、而も舎(お)いて修めず。綱紀是に於てか乱れ、政令是に於てか廃る。
 財用の途、亦将に何に由つてか通ぜんとす。然り而して錙銖毫糸の末を較計増減す。
 豈財の内に屈する者に非ずや。何ぞ其の理の愈々密にして、而て其の窮の愈々救うべからざるを怪しまんや。一个(こ)の士、蕭然赤貧、室・懸磬(けい)の如し。甑(そう)中塵を生ず。而も脱然高視、別に立つ所有り。而して富貴も従つて至る。財の外に立つ者なり。匹夫匹婦の希う所、数金に過ぎず。而も終歳齷齪(あくせく)、之を求めて得ず、饑餓困頓、卒に以て死するに至る。財の内に屈する者なり。今堂々たる侯国、富・邦土を有す。而も其の為す所は、一介の士に及ばず、匹夫匹婦と其の愚陋を同じうす。亦大に哀しむべからずや。三代の治は論無きのみ。管商富強の術に至つては、聖人の徒の言うを恥づる所。
 然れども管子の斉に於ける、礼儀を尚んで、廉恥を重んず。商君の秦に於ける、約信を固くして刑賞を厳にす。此れ皆別に立つ所有り。而して未だ必ずしも財利に区々たらざるなり。唯だ後世興利の徒、瑣屑煩可、唯だ財をこれ務め、而も上下倶に困しみ、衰亡之に従う。此れ亦古今得失の迩昭々たる者なり。今明主賢相誠に能く此に省み、一日超然として財利の外に卓立し、出入盈縮、之を一二の有司に委ね、特に其の大数を会するに過ぎず。乃ち義理を明かにして以て人心を正し、浮華を芟(か)つて風俗を敦うし、貧賂を禁じて以て官吏を清くし、撫字を務めて以て民物を瞻(た)らし、古道を尚んで以て文教を興し、士気を奮つて以て武備を張れば、綱紀是に於てか整い、政令是に於てか明かに、経国大法修まらざるなし。而して財用の途亦従つて通ぜん。英明特達の人に非ざるよりは、其れ孰(たれ)か能く之を誠にせん。』
 これは山田方谷が三十歳頃に書いた名論である。この理財論は単なる議論ではなく、板倉藩が非常に貧乏で、もうどうにも手がつけられないほど疲弊しておったのを徹底的に改革し、特に財政を豊かにして生産をあげ、風俗を正したので、旅人が一たび板倉藩にはいるとすぐ分かったというくらい治績をあげた。したがって、この理財論は単なる政治家や経済学者の論と違って、その人の実力が証した名論であり、権威のある議論である。理財について非常に緻密に調査をしておることは、板倉藩の歴史始まって以来今日が最高であって、口をひらくと金、金と言っておるのだから、少しは暮らしが楽になったかと思うと、相変わらず貧乏で疲弊のどん底にある。農民が納める税金、海や山からとれる産物、あるいは通行税・取引税などは必ずとれるだけとりたてている。また支出の面では、徳川幕府から賦課される費用、外交祭礼の費用、その他乗り物、建築費等はできるだけ節約して数十年になるが、藩の貧乏はますますひどくなり、借金は増えるばかりで、米倉も空となり、救済することができない状態となってしまった。これは理財の運用にあたる人間の知能の不足が原因であるのか、それとも技術が未熟であるためか、あるいはどこかに手ぬかりや欠陥があるためだろうか。
 いやそうではない。 天下の事件や問題を処理する者は、事件や問題の外に立って、事件の内にちぢこまらぬことが大切である―夫れ善く天下の事を制する者は、事の外に立って、事の内に屈せず―。これが理財論の全編を通じて、方谷が言わんと欲する根本的見識である。
 ところが今の政治家は、皆財につかまって小さくなっている。これは平和が長く続いて敵国に対する心配がなくなったからで、そのために、殿さまも家臣も、皆太平に馴れてぜいたくになり、出費が増え、常に金のことばかりを考えて、人心は日に日にこうかつとなり、風俗はいよいよ薄くなるばかりで、もとのように敦(あつ)くすることが不可能となった。その上、役人は汚職をやり、人民は疲弊困憊(こんぱい)の極に達しておる。したがって文教はすたれ、武備はゆるんでしまって、これを興すこともむつかしくなった。そこでこの原因をたずねると、必ず「金がないから、何もできないのである」と答える。
・思うに人心と風俗の問題、役人と庶民の生活問題、また文教と軍備の問題は国を治める上に最も大切な根本問題である。しかるにその大切な問題を忘れているから、規律は乱れて命令がとどこおるのが当然である。このような状態でどうして経済が発展するだろうか。
にもかかわらず枝葉末節の問題である金を増やすとか減らすとか等をやっておるのは、財の中に屈している証拠ではなかろうか。経済問題が非常にやかましく論じられ、調査されているのに、救い難いほどの貧乏をしている現実を不思議と思わないのか。ここに一人の武士があって言語に絶する貧乏をして、家財道具をすっかり売りつくし、米櫃(びつ)は空で、中には塵(ちり)がたまっているというような生活を続けながらも、この苦しい生活を切りぬけようと、目標を高くかかげ、信念をもって貧乏に耐えたところ、何時しか貧乏の境遇から離脱して豊かになったという―こういう武士は、財にとらえられず、これを超越した人間であると申してよろしい。思うに庶民の必要とする金はほんの僅かにすぎない。その僅かの金を手にいれんと、年中あくせくして疲労困態の末に死ぬ者もあるが、これは金にとらえられた人間である。広い国土と財産をもった堂々たる大国がこの貧乏な武士にも及ばず、金にとらえられた庶民のように汲々としておることはじつになげかわしいことである。
・中国古代の代表的な帝王である、尭・舜・禹三代の理想政治は問題外として、管子・商鞍の富国強兵の手段は功利主義であると孔子から非難をうけているけれども、斉の宰相として管子が実施した政治の根本理念は、礼儀を重んじ、恥を知ることを第一としており、また秦の宰相として商君が実施したのは、信義を重んじて信賞必罰をやることであった。
 管子も商君も経済には拘泥せず、しかも立派な政治を行ったので、春秋戦国時代の名宰相といわれている。ところが後世になると、為政者も庶民も金の奴隷となって、小さいそろばんをはじいて苦しみ、その上貧乏している。この事実を比較して考えると、その得失がきわめて明瞭である。そこで藩主も、藩主を補佐する役人たちも、深くこの事実を反省して、財の中に屈することなく、日常の簡単な経済問題は専門の役人にまかせて、時々大きくそろばんを合わすように点検すればよろしい。そして最も大切な問題である人間と仕事をいかにすべきかを考えて、まず人心を正し、華美な習慣を戒めて、風俗を取締り、賄賂を禁じて、役人の生活と姿勢を清くし、藩民を愛して物資を豊かに、古道を尚(たっと)んで、教学の興隆と武士の意気をたかめて、軍備を充実すると国家の大法はととのい、政府の発する命令は明確化されて、財政も自然によくなろう。しかしこれを実践できる人は、よほど人間のできた偉い人であって、とうてい尋常の人では実行が不可能であろう。
●善をなすが最良の道
 財の外に立つと財の内に屈するとは、すでに其の説を聞くを得たり。敢て問う、貧土弱国、上乏しく下困しむ。今綱紀を整え、政令を明かにせんと欲するも、而も饑寒死亡先ず已に之に迫る。其の患を免れんと欲すれば、則ち財に非ずんば可ならず。然るに尚其の外に立つて其の他を謀る。亦太だ迂ならずや。日く、此れ古の君子の、努めて義利の分を明かにする所以なり。夫れ綱紀を整え政令を明かにするは義なり。饑寒死亡を免れんと欲するは利なり。君子は其の義を明らかにして、其の利を計らず。唯だ綱紀を整え、政令を明らかにするを知るのみ。饑寒死亡の免るると免れざるとは天なり。挧爾(さいじ)たる縢(とう)を以て、斉と楚とに介す。侵伐破滅の息日に迫る。しかも孟子之に教うるに彊(つと)めて善を為すを以てするのみ。侵伐破滅の息、饑寒死亡より甚だしきもの有り。しかも孟子教うる所は此の如きに過ぎず。則ち貧土弱国、其の自ら守る所以の者亦余法無し。しからば義利の分果して明らかにせざるべからざるなり。義利の分一たび明かにして、而して守る所のもの定まる。日月も明と為すに足らず。雷霆(らいてい)も威と為すに足らず。山嶽も重しと為すに足らず。河海も大と為すに足らず。天地を貫き、古今に度りて移易すべからず。又何の饑寒死亡かこれ患うるに足らん。しかるを区々(くく)財用をこれ言うに足らんや。然りと雖(いえど)も又利は義の和と言わずや。未だ綱紀整い政令明かにして、而も饑寒死亡を免れざる者有らざるなり。尚(なお)此の言を迂として、吾れ理財の道有り、饑寒死亡を免るべしと目わば、則ち之を行うこと数十年、邦家の窮益々救うべからざるは何ぞや。      孟子
・問「財の外に立つと財の内に屈する―ということはよく理解できましたが、生産力の乏しい、勢力の弱い国が、上に立つ者も臣下も貧乏して苦しんでおるときに、国のおきてを整え、命令をはっきりさせたいと思っても、寒さと空腹のため死を招きます。これからのがれようとすれば金がなければなりません。それにもかかわらず財の外に立って方法を考えるということは迂遠な方法ではないでしょうか」
・答「これは昔の為政者が、どうすることが義、―人間として履(ふ)むべき正しい道であり、どうすることが単なる利欲の満足であるか、という義と利をはっきりと分けた理由である。綱紀を整え政令を明らかにすることには金はかからない。また古道を尚(たっと)び文教を振興することにも金は必要ではない。金がかかるなどという意見は世間の一般論であって、そのこと自体は金のかかるものではない。たしかに綱紀を整え政令を明らかにすることは義であり、饑寒死亡を免れようとするのは利であるが、為政者はその義を明らかにすることに努力して利を計ってはならない。また饑寒死亡を免れたり、これに遭うことは、これには天命ということもあって、人間の考えだけではどうにもならない問題である」
・昔、縢(とう)という小国が、斉と楚という二つの大国の間に存在していた。一度戦乱がおこれば、縢はたちどころに大国の侵略をうけて滅亡するかも知れない。この危険な小国の縢に対して、孟子はつとめて善をなすように教えている。 侵伐破滅の苦しみは、饑寒死亡より大であるが、孟子はこのように善をなすことを教えている。縢のように小国で力が弱ければ弱いほど、善をなすことが最善の方法である。
・国民の志気をさかんにして、政治を立派にすれば、自然に物質問題は解決するものである。何が義であり、何が利であるかが明確になると、各自の職分も決まる。これは天にかかる太陽や月よりも明瞭であり、雷よりもきびしく、山や海よりも重くて大きい。じつに天地を貫き、古今を通じて変わらない根本問題である。
・この大事な問題をほったらかして、毎日金金とあくせくしながら、貧乏しておるのは、結局心がけが悪いからである。本当の利とは義の和、すなわち義をだんだん実践していくことによって成りたつ。これに活眼をひらけば財はいくらでも豊かになるものである。綱紀が整い、政令が明らかであるにもかかわらず、饑寒によって死亡したという例を聞かないのであるが、この言葉を迂遠と考えて、我れに他の理財の道があると言ってこれを行い、数十年になるのにかえってますます貧乏するのはなぜか。
 これが、山田方谷の理財に対する見識である。彼はそのとおり貧乏板倉と言われて、どうにもならなかった板倉藩を数年にして立てなおし、風紀の整った、財政の豊かな藩として、明治九年七十三歳で亡くなった。理財家の結論が、財にとらえられてはいけない、財を超越してこれを駆使しなけれぱならない。経済的にゆきづまり、どうもお手あげだというときに、額をあつめて会議や議論をやってもよい考えは浮かばない。こういう際には山田方谷のような達人、実際家の研究・勉強をしてみると、案外窮境を脱することが容易であるかも知れない。 やはりわれわれはこういう達人の信念と論説を学ぶことが現代に大変参考となる。<「先哲講座」安岡正篤著より>
 本を読めば読むほどのめり込んでしまう、山田方谷。一度、岡山の高梁市を、そして記念館を訪ねてみよう。来年からの私のテーマかも。もしかしたらライフワークになるかもしれない。まさに、私なりの山田方谷の旅。山田方谷論。新たな行政改革論かも。

山田方谷記念館  http://niimi.gr.jp/recommend/detail.php?id_recommend=72
 幕末の陽明学者、藩政改革者、また教育者として活躍した山田方谷の偉業を讃え、後世に永く伝えるため、山田方谷の生き方「誠実、勤勉、清貧、謙譲などの 心」にふさわしい施設として設置され親しまれている。
 「財政の天才・山田方谷吉備国際大学政策マネジメント学部教授矢吹邦彦氏は語る。
 ①方谷の功績と精神
 十万両(現在の二百億円)の借金を抱え、参勤交代の費用さえままならず、東海道の運送人(雲助)からも「貧乏板倉」とあざけられ、敬遠された備中松山藩五万石(現在の岡山県高梁市)。その破産寸前の超貧乏藩をわずか八年(実質七年)で、蓄財十万両の富国強兵藩に変身させたのが、農民出身の山田方谷である。無論、十万両の借金を返済した上で……。
 このうわさは全国津々浦々にまでとどろいて、長州の久坂玄瑞吉田松陰松下村塾で、高杉晋作と松門の双璧と称せられた)や越後長岡藩の河合継之助、会津秋月悌次郎や南摩綱紀(二人とも後の東京帝国大学教授)らの英傑才人が続々と備中松山藩の見学に訪れている。
 方谷が正兵五百人とは別に組織した農兵隊千二百人のフランス式軍事教練を目撃した久坂玄瑞は、「我が藩の軍隊は備中松山に遠く及ばない」と驚嘆の手紙を国元へ書き送った。
 ただ一人、方谷に内弟子入りを許された河合継之助は日記「鹿壷」に備中松山藩の教育水準の高さを記録した。方谷が各地に建てた学問所(教諭所)には町人たちが学んでいる。「百姓の子、十二歳にて『八大家文』を読み居る者あり……」と絶句する。
 江戸城において備中松山藩の奇跡の藩政改革は大評判となった。そのおかげで、藩主の板倉勝静は幕閣の道をコイの滝登りのごとく上りつめていくこととなった。寺社奉行、さらには三段跳びで老中へ。十五代将軍の時には筆頭老中となっている。
 農民出身の山田方谷に藩の元締役(大蔵大臣)、さらには郡奉行(軍務大臣)、参政(総理大臣)の独裁の地位を与え、藩政のすべて方谷に任せてしまったのが、ほかならぬ板倉勝静公だった。
 八年で藩政改革が成るや、すべての地位を返上して隠退することを願い出た方谷に対し、板倉勝静公は隠退を認めるが、参政の地位を去ることは許さないという奇妙な妥協案をもって方谷を押しとどめた。半隠半官の不可解な立場で、方谷は老中の政治顧問として幕政に参加することとなっていく。
 老中顧問の山田方谷に畏敬の念を抱き続けた幕末の志士たちがいた。あの鉄人・岩倉具視であり、長州の木戸孝允久坂玄瑞、そして薩摩の大久保利通たちであった。
 山田方谷の功績を極めて分かりやすく知る方法がある。明治に至る幕末の二十年間、あのカオスの時代に百姓一揆が起こらなかった藩はどこか。ただ一藩、備中松山藩五万石のみ。
 凶作ともなれば、藩米を惜しげもなく放出し、餓死者は一人も出さなかったばかりか、娘が身売りされる悲劇の農家もなかった。人口の八割が百姓だった当時、村々に方谷をまつる祠が次々と建てられたゆえんである。
 山田方谷の精神的支柱といえば、陽明学である。陽明学は危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学とも言われる。中国の明の時代に王陽明によって樹立された唯心論である(今の中国の人々は王陽明陽明学も知らない)。陽明学の神髄は「致良知」と「知行合一」というのが一般的だが、山田方谷は「誠」こそ真の陽明学の神髄である、と唱えた。山田方谷が弟子たちに繰り返し教えたことが二つある。一つは「筋を通す」。もう一つは「公私のけじめ」だった。
②方谷が注目される理由
 現代の日本はどこか幕末の時代に似ているのではないか、としばしば言われる。米本位経済で成り立ってきた江戸時代は、その後半ともなると、台頭してきた金本位経済(広義の資本主義経済)に押しまくられて、屋台骨がきしんでいく。財政難に陥った幕府や全国の諸藩は改革に取り組むが、ほとんど失敗に終わり、さらなる暗い悲惨な状況へと突き進んでいった。アヘン戦争後の日本には、外圧の脅威が身近にひしひしと高まっていく。現在の日本の国と地方の借金は千百兆円という天文学的な巨額に上り、国家破産さえ視野に入れなければならないほどで、さらに、高齢・少子が急速に進んでその前途ははなはだ暗い。明るい前途を見いだすことのできない閉塞の時代という意味から、現代の日本と幕末はすこぶる似通っていると言えよう。

<今日のトラックバック
・「山田方谷とは。」http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121209/p1
・「人を育てる」 そして「上杉 鷹山と山田方谷http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130909/p1

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◆今日も週末介護である。午後から久しぶりに買い物に出かける。かなり足腰が不自由なため、疲れたようである。今後の生活に不安を痛感する。約1か月足の治療もかねて、同居じている。来週には実家へ連れて帰りたいと考えている。段々衰えて行く姿をみて悲しくなる。
 来週には久しぶりに農業をやることになろう。でも、相当草がはえていることであろう。たいへんである。

◆『風をよむ・・・集団的自衛権。日本の進むべき道は。』(2014年4月13日放送 8:30 - 9:54 TBS「サンデーモーニング」より)
 日本の憲法9条がノーベル平和賞の候補となった。神奈川県の市民団体が推薦状を送った。一方国内では、憲法改正の動きがみられている。自民党石破茂幹事長は「国民の皆様にも主権者として憲法改正ができる環境が整ったと、よく認識して頂くよう啓蒙に努めなければならない」とコメント。火曜日、与野党7党が国民投票法改正案を衆議院に提出した。これが成立すれば、施行から4年後に、憲法改正の際の国民投票の投票年齢が20歳から18歳に引き下げられる。早田由希子氏は「憲法改正に前のめりな印象」と述べている。
 集団的自衛権の行使容認に関しては、自民党高村正彦副総裁の砂川事件をめぐる最高裁の判断をふまえた発言があった。高村副総裁は「集団的自衛権の行使は限定的であれば認められる」と主張。慎重な姿勢をとる公明党との調整に自信を示した。しかし、公明党北側一雄副代表は「集団的自衛権の問題がここ(砂川事件判決)で最高裁で論争になっていたわけではない」と述べた。菅義偉官房長官は防衛装備移転三原則が閣議決定されたことを発表した。これは「平和貢献の推進」や「日本の安全保障」に役立つと思われる場合、武器輸出が認められるというものである。
 元行革担当相の村上誠一郎衆院議員は雑誌のインタビューで「急がなくてもいい集団的自衛権の行使容認や原子炉輸出、武器輸出の解禁といった、優先順位が必ずしも高くない政策に力を傾けている。これでは、また次の選挙で倍返しの厳しい判断を国民から下されることになるのではないかと危惧します。」と述べている。寺島実郎氏は「世界は日本を成熟した民主主義国家として国際社会に関与してくるのかどうか、非常に期待感と不安を持ってみているということを認識しなければならない」とコメントした。

<昨年の今日>また週末農業です。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130413/p1