訒小平、人物でたどる中国の50年。中原中也記念館。そして「カイシャの鑑」

市場経済への軟着陸
 訒小平は1904年8月22日に生まれであり、97年2月20日に死去した。享年92歳5カ月である。訒小平毛沢東1893年12月26日〜1976年9月9日、82歳8カ月)より10歳年下、周恩来(1898年3月5日〜1976年1月8日、78歳10カ月)よりも六歳年下である。彼は1956年に52歳で党総書記として党機構を動かす地位につき、62〜72歳の働きざかりの10年間を文化大革命のために配所で暮らし、73歳以後90歳で完全引退するまでの10余年を中国共産党の事実上のナンバー・ワンとして中国政治をうごかしてきた。
訒小平は三回失脚し、三回復活した。一回目は江西ソビエト時代に毛沢東派の一人として引きずりおろされ、毛沢東復権とともに復活した。二回目は文化大革命のとき、実権派NO2としてたたかれ、林彪事件以後復活した。三回目は1976年の第一次天安門事件のとき黒幕とされ失脚したが、毛沢東の没後、不死鳥のように復活した。訒小平は80年代初頭から指導部の若返り工作に腐心してきた。胡耀邦(一九一五〜一九八九)や趙紫陽(一九一九〜 )を総書記に抜擢し、みずからは軍事委員会主席のポストは保持したものの、表むきのナンバーワンの地位(党主席あるいは党総書記)につこうとしなかった。指導部の事実上の「終身制」や、権力の過度の集中現象、後継者養成システムの欠如が一党独裁体制の最大の弱点の一つであることを明確に自覚していたからだ。「党と国家の指導制度の改革について」(80年8月18日)の講話には、毛沢東政治の限界をみつめる訒小平の英知があふれている。その後10余年、訒小平は一方で「老人政治」を批判しながら、その泥沼(いわゆる「八老治国」的現象)で悪戦苦闘をよぎなくされた。訒小平は保守派の長老たちと妥協をかさねつつも、改革開放の旗をかかげつづけた。
訒小平が中国の政治を動かした時期をかりに「訒小平時代」とよぶとすれば、この時期の彼はどのように評価されるであろうか。「あくまでも悔い改めない実権派」としてか、それとも地におちた中国共産党の威信をかろうじて救済した「中興のストロングマン」としてか。前者は訒小平に対する“四人組”の評価であるが、いまや前者ではなく、後者の評価が有力になりつつある。
特にここで強調しておきたいのは、89年の天安門事件以後五年間に生じた国際情勢の激変である。学生の民主化運動に対して、中国当局が処置を誤った一因は、ゴルバチョフ訪中を終えてから、運動に対処しようとして後手に回ったためである。6月3〜4日、北京で流血の事態が起こり、これが大きな契機となって旧ソ連、東欧の民主化が進展したことはよく知られていよう。ベルリンの壁を突き崩した東独市民のデモはまずベルリンの中国大使館に対して向けられたのであった。彼らは友好国中国の「蛮行」を非難する形でデモを行なう自由しかもたなかった。こうして旧ソ連東欧の民主化が劇的に進み、つぎは中国の番だと誰もが予想していたのが1991年までの事態であった。中国はこのころ、旧ソ連東欧から厳しい民主化圧力を受けていた。しかし、91年夏に流れが変わった。旧ソ連で保守派のクーデタが起こり、「三日天下」に終わり、91年暮れには旧ソ連そのものが解体するに至った。その後、政治的経済的混乱状況は深まるばかりである。
これに対して、武力鎮圧によって政治的安定をとにもかくにも確保できた中国は、92年以後10%以上の高度成長を続けている。この成長を好感して直接投資が続々と中国に向かい、成長を支えるに至った。開放政策を始めた1979年から91年までの直接投資受入れ額が523億ドル(契約ベース)なのに対して、92年だけで580億ドルになり、さらに93年は1100億ドルになった。まさに倍倍ゲームである。これは訒小平路線に対するなによりも有力な支持であろう。高度成長のもとで中国人の消費生活は着々と改善され、人びとの目は民主化ではなく、経済すなわちカネに向かっている。外資を導入した合弁企業の活力と郷鎮企業の雇用吸収力を二つのテコとして、中国の市場経済化は確実に進展し、いまや中国という巨大なジャンボ機は、華南経済圏、上海経済圏、渤海経済圏という三つのエンジンによって離陸しようとしている。訒小平は内政面で毛沢東の失敗を教訓として学びうる立場にあり、また外交面では周恩来の知恵を学ぶ立場にあったことは、今日の訒小平にとって得がたい体験であったはずである。
毛沢東共産党のNO1の地位(党主席)を1935年から死去した1976年まで41年間にわたって保持した。周恩来毛沢東の片腕として、中華人民共和国の国務院(内閣)総理を1949年から76年まで26年間務めた。総理(宰相)の激務を四半世紀にわたって務めるのはただごとではない。不倒翁(ルビ・おきあがりこぼし)のあだなをもつ周恩来は、いくども倒れそうになったが、そのつどおきあがり、ついに死ぬまで総理の地位を保持した。毛沢東をかりに中華人民共和国の「建国の父」とよぶとすれば、周恩来は「建国の母」にあたる。この革命の過程できわだった貢献をした二人が毛沢東周恩来であり、しかも建国後も30年ちかくにわたって、皇帝と宰相の役割を果たし続けた。毛沢東周恩来は現代中国の生んだ傑出した政治家であるばかりでなく、広く20世紀の世界の偉人というモノサシでもおそらく屈指の指導者である。毛沢東の植民地解放闘争に対する貢献は不滅である。とはいえ、その功績は主として、四九年までのものにとどまる。49年革命の成功によって毛沢東が幻惑され、大躍進の失敗の政治的痛手を隠蔽しようとしたとき、毛沢東社会主義は天空に漂い、空想的社会主義に転化した。この観念論に堕した毛沢東思想を換骨奪胎して、現実論までひきもどしたのが訒小平の功績であろう。
訒小平には深遠な哲学や高踏的な理論はない。しかし、その「知恵」はなかなかのものではないか。台湾や韓国の輸出加工区の教訓に学んで、「経済特区」構想をぶちあげたかと思えば、香港や台湾の経済力を巻きこむ(最終的には統一を目指す)ために「一国両制」構想を打ちだした。これは社会主義中国に植民地香港と資本主義台湾をとりこむための知恵である。訒小平の理論や政策がきわめて折衷的なのは、なによりも現実政治の場での実現可能性を優先させるからであろう。実際家、実務家たる訒小平には「理論信仰」的匂いはまったくない。「右に警戒すべきだが、いま主要なのは左を防ぐことだ」といった言い方のように、玉虫色の折衷策が多いが、単純に中間をとっているわけではない。やや距離をおいてみると、訒小平路線の目ざす歴史的方向性は明確である。第一に、70年代末に日本や四小龍、アセアンの三匹の虎の高度成長の意味を的確に把握した。彼は1979年12月に大平正芳首相と所得四倍増論議をくりひろげ、中国流の所得四倍増計画をぶちあげた。これはいわば訒小平路線の出発点であった。第二に、戦後世界の枠組みを作っていた冷戦構造の終焉を予感して、毛沢東流の「第三次大戦不可避論」を修正した。大戦はさけられる、今後は「平和と発展の時代」だと彼は世界の潮流を正しくとらえた。こうして解放軍を400万から300万に削減した。85年のことである。米ソによる軍縮交渉の行方を先どりした面がある。第三に、訒小平は「反社会主義の勧め」さえやったことがある。1988年5月8日、モザンビークのシサノ大統領と会見した際に、こう語った。「中国の経験によれば、あなたがたは社会主義をやるなかれ、とお勧めしたい。少なくとも大雑把な社会主義スターリン・モデルの社会主義を指す)は、やってはいけないし、もしやるとしてもあなた方自身の国の特徴をもつ社会主義をやるべきである」。
毛沢東反帝国主義闘争を指導して、中国を独立させた功績は不滅であろう。しかし、経済建設においては大きな誤りをくりかえした。大躍進期に約1500〜2000万の人々を餓死せしめた政治的責任はことのほか重い。また核戦争による人口半減の危険性を信じていたこともあって、人口抑制政策を軽視した。毛沢東時代をつうじて人々の消費生活が改善されなかった理由の一因は、戦争にそなえる戦時経済体制のためだが、これは国際情勢からしてよぎなくされた側面である。しかし、計画経済体制や人民公社制度が現実に適合しなかったことが経済発展のさまたげになったのはみずからの理論的、実践的責任である。訒小平時代には、平和な環境のゆえに、軍備の削減を可能とする条件が存在したことのほかに、脱計画経済、市場経済化への方向を模索したことによって発展を加速できた面が大きい。人民の消費生活面での要求や香港、台湾という「ライバル」、そして2000万におよぶ海外華人・華僑の存在など政策転換をせまる条件が背景にあったことは確かだが、その潮流を読みとり、政策の方向を大転換させえた功績は、あくまでも訒小平の英断に帰せられるであろう。経済建設の面では、実務家訒小平の方が理論家毛沢東よりも優れていたと評価して大過あるまい。
毛沢東は古今の哲学書、歴史書を愛読し、『実践論』『矛盾論』などの哲学論文を書き、またその方法を駆使して、中国共産党理論武装し、革命の戦略戦術を編み出した。この文脈で、実務家訒小平を思想家毛沢東と比較すると、思想の深さや徹底性の点で、毛沢東に軍配があがるであろう。しかし、哲学者が政治家として優れているかどうか、それが庶民にとって幸福かどうかはべつであろう。大きな理論体系をもつ指導者が大きな誤りを犯した現実をすでに観察してきたわれわれの評価基準からすると、むしろ「石を摸して河を渡る」訒小平流の「小さな理論」こそが誤りを小さなものとしうる点で好ましい。むしろこう表現すべきであろう。四九年革命の時代はまさに思想家、哲学者毛沢東の時代であった。それとおなじような意味で、建国以後の中国に必要なのは、思想家ではなく、訒小平のような行政家、実務家であったのだ、と。
訒小平毛沢東のもとでゲリラ活動をやり、全国的政権の樹立後は党主席毛沢東のもとで共産党総書記をつとめた。人格的にも思想的にも毛沢東の枠をこえられないのは、あたかも孫悟空が釈迦の掌中から出られない姿を想起させる。これが常識的見方である。しかし、これはマヌーバーであるかもしれない。訒小平毛沢東をあざむき、保守派をあざむくために、みずからをあざむいているのかもしれない。毛沢東はみずからを孫悟空になぞらえたが、もし毛沢東孫悟空なら、訒小平を釈迦に比定することもできるはずだ。この譬喩は唐突にみえるが、訒小平株はいまや周恩来を超えて、毛沢東のそれにせまりつつあるのだ。毛沢東から見ると、チビの訒小平は実に頼りになる部下であった。大きな方針を指示しさえすれば、訒小平は見事にその方針を実現するために抜群の実務能力を示した。その典型的な例は揚子江渡河作戦の大勝利であった。他方、訒小平から見ると、毛沢東を優れた戦略家として心服してきたが、建国以後は自身過剰になり「君側の奸」に惑わされて、大きな過ちを繰り返した。復活した訒小平の課題は、毛沢東思想の名において現実の毛沢東路線を覆すことであったともいえるのだ。訒小平周恩来の関係はどうか。彼は次のような周恩来評を語っている。「われわれは早くから知り合いになり、フランス苦学時代には一緒に暮らした。私にとって終始兄事すべき人物であった。われわれはほとんど同じ時期に革命の道を歩いた。彼は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、われわれは下放したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、いくつも心に違うことを語り、心に違う事をいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身も地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」。訒小平は宰相周恩来にも言論の自由がなかった、と言いたいごとくである。これは一体どうしたことか。無数の革命家たちの累々たる死屍の上に樹立されたこの政治体制の不条理をよく物語るものであろう。周恩来の才能は「官僚」的側面に恵まれ、特に毛沢東大戦略の具体化に全力を挙げることしかできなかった。周恩来文革の標的にされる訒小平をかばうことはできたが、毛沢東文革を阻止することはできなかった。ここに周恩来の弱さがある。訒小平周恩来毛沢東の性格を両方とも熟知していた。周恩来に過大な期待を求めず、毛沢東がみずら過ちに気づくのを待つ、これが訒小平流の対処法であった。
訒小平は強運である。三回の失脚から立ち直ったことはすでにふれたが、むしろ四回目の名誉回復と呼ぶべきである。訒小平天安門事件直後、改革開放路線が「名存実亡」化したときに亡くなったとすれば、人民に対して正規軍の銃口を向けた「歴史の大悪人」のイメージだけが肥大化した可能性がつよい。その後、旧ソ連が解体するなかで中国経済は高度成長をつづけた。その結果、訒小平のイメージは、「改革開放の旗手」としての明るいものに再修正されつつある。アジアや世界の人々は、こぞって中国の政治的社会的安定と経済発展をつよくのぞんでいる。共産党社会主義の旗を引きつづきかかげながら、撤退作戦を展開するのは、進撃よりももっと困難かもしれない。このような時代にあって、中国社会主義のしずかな「安楽死」、グローバルな市場経済への軟着陸の道を訒小平はきりひらくことに成功した。

中原中也記念館 http://www.chuyakan.jp/00top/01main.html
 中原中也記念館は山口市湯田温泉にある博物館(文学館)。山口市出身の詩人、中原中也の生家、中原医院の跡地に立てられており、中原中也の遺品、遺稿が展示されている。展示物は常設、常設テーマ、企画展示の三部構成になっており、常設テーマは1年、企画展示は2-3ヶ月のスパンで変更されている。記念館では記念館開館時に制定された『中原中也賞』関連の事業や、『中原中也の会』のサポートなどを行っており、館報も随時、発行されている。建物は公共建築百選に選定されている。中原中也記念館は、平成26年2月で開館20周年を迎え、これを記念して、開館20周年記念事業を開催している。

◆2014年4月29日放送 23:10 - 0:08 テレビ東京ワールドビジネスサテライト』より
①野菜の新しい”買い方”とは
 東京新宿の繁華街を自転車の荷台でOFFICE DE YASAIで走る女性が登場。企業のオフィスに入っていくと、ダンボールから 小分けにした国産の野菜をオフィスで販売しているサービスで勤務時間の合間に野菜を手にする事ができる。上段が200円で下段が100円といった料金設定で購入した女性はおいしく、食べきりサイズで良いと語る。さらに利用企業が野菜を買い切るプランもある。このプランを利用するサイバーエージェントの担当者は、社員を健康面で援助できるとコメント。
 農家のメリットとして供給する相星さんは、規格外品をOFFICE DE YASAIに向け出荷する事ができ、オフィスでは食べきれるサイズを求めるため需要にマッチしている。相星勝弘さんは年間を越すと結構な額になるので助かっているとコメント。コンペイトウの川岸社長は野菜の消費量が少なくなっている中で、OFFICE DE YASAIで手にとる機会を作れればとコメント。クイーンズ伊勢丹 石神井公園店では、オイシックスが作った売り場があり、変わった野菜が40種類ある。かぼっコリーなどを紹介し、近くに置かれたブタや鶏の置物には、いいものだなという入り口を広げたいとしている。一方で店側はバッティングの不安は泣く相乗効果が大きいとしている。
 スタジオでは、ニーズに合わせた売り方探しの余地がまだあるとコメント。大浜はピーチかぶという傷みやすいかぶが、丁寧に扱ってくださいという意味を込めて付けられたことにより売り上げが上がったエピソードを披露。売り方にはまだまだ余地があるとコメント。
②「カイシャの鑑」
 中小企業が減少傾向にある中、社員の雇用を第一に掲げ独自の路線で活路を開いている会社を特集する。島根・松江市にある島根電工は電気や水回りなどの工事を手がける会社。この春従業員約500人の会社に32人の新人社員が入社、純利益はグループで5年間6倍に増加。島根電工の収益の柱はかつて大型公共事業で、島根県立産業交流会館も手掛けた。しかし公共事業が減少し収益が悪化、社長は反対を押し切り事業転換をはかった。社長は社員の首を切らないと宣言、新たな仕事として「住まいのおたすけ隊」を結成、大口の仕事とは真逆の個人客をメイン客にターゲットとしたビジネスを開始。取材をした日、住まいのおたすけ隊は家庭の証明器具の取り付けなどを行い、住人の困り事を聞いた。島根電工は家庭の悩み解決を新ビジネスの主軸にしたのだ。そして社長はさらに社員に一流のサービスを学ばせた。社長は社員研修をリッツ・カールトン、ディズニーランドなどで行った、客に感動してもらうためには感性豊かな社員が必要などと話した。島根電工では今では売り上げの約4割が一般家庭向けなどになり、今季過去最高の利益水準の見込み。

◆今日のニュース
 巨人菅野5連勝。マー君の再現?(少し気が早いかな)

<本の紹介>
・人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4101098166

<昨年の今日>「今日は昭和の日。」http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130429/p1