再び佐藤一斎。樋口一葉生誕142周年「樋口一葉記念館」。そして、明日からゴールデンウィーク後半4連休。

◆江戸末期の儒学者佐藤一斎。70歳にして当時の公的な学問・教育機関のトップである昌平坂学問所の儒官となり、88歳で没するまで知力・気力を漲らせ、江戸の学問と教育に大きな影響を与えた人物である。その著書「言志四録」は、西郷隆盛が座右の書として愛読していたことでも知られている。
 そんな江戸末期の教育を築いた佐藤一斎の遺した教えとはいかなるものかを探る。
 「少にして学べば、則ち壮にして為す有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず」(若いうちに学んでおけば、大人になった時には、人のためになることができる。大人になって学んでおけば、年を取っても気力や精神力は衰えることなく元気でいられる。年を取っても学ぶことを続ければ、ますます高い見識や品性をもって社会に向かうことができ、死んでもその精神や業績は語り継がれる)
 一斎の著書『言志四録』の中でもとりわけこの「三学戒」といわれる教えは小泉純一郎氏が首相在任中の答弁で取り上げたこともあり、耳にされたことのある方も多いのではないでしょうか。同書には、こうした人の心に染み渡る素晴らしい言葉がたくさん収録されており、没後150年余を経た現在も多くの人に親しまれている。佐藤一斎江戸幕府昌平坂学問所の儒官、いまでいえば東京大学学長にも相当する立場にあった人物で、幕末の思想家や志士たちに大きな影響を与えた。その一斎が1772年に生まれたのが旧岩村藩家老の家だった。
 「凡(およ)そ事を作(な)すに須(すべか)らく天に事(うか)うるの心有るを要すべし」(この世に生を受けて生きている限り、すべてのことを行う時には、天にお仕えするような清い心をもって事に当たることが大事である)
 佐藤一斎についてhttp://d.hatena.ne.jp/ks9215/20131114/p1

樋口一葉記念館http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/
 一葉が住んでいた竜泉寺町の大音寺通りの地図がみると、荒物や駄菓子を商っていた長屋の自宅の右隣は、酒屋、魚屋、床屋、たび屋、いも屋などがあり、左隣には人力宿屋、建具屋、おけ屋、たばこ屋、質屋などが並んでいる。向かいは下駄屋、たび屋、豆腐屋、傘屋、だがし屋、筆屋、べっこう屋など。この大音寺通りの先にお歯ぐろどぶがあり、その先に遊郭で有名な吉原があった。糊口の文学から脱して生活を支えるために、商いをすることを決心する若い一葉は友人の目に届かないこの場所を選んだ。貧しさのために勉学や優れた才能を充分に生かせない社会に不条理を感じた。一葉は利発で小学校高等科第四級を首席で卒業しているが、「女が学問を身につけるのは好ましくない」という母親の強い反対で進学を断念している。「死ぬ斗悲しかりしかど、学校は止になり」と日記に記している。後に一葉は、私の学校は歌塾「萩の舎」と東京図書館でしたと語っている。中島歌子の萩の舎では、上流階級の娘が多く、下級官吏の娘で古着をまとった自分が最高点をとったなどと「一葉日記」にも記されている。歌子の助教を務めるまでになっており、一葉は短い生涯で4千首の和歌を詠んでいる。明治20年の発表記念会の写真では、細おもての一葉の顔を見ることができた。
 父や長男を失った樋口家は、55歳の母、32歳の姉、23歳の次兄を養う戸主に17歳の一葉をたてる。一葉は小説を書くかたわら、生活苦を商いによって打開しようと決意。そのため一葉は、母と妹と共に明治26年7月20日、下谷龍泉寺町三百六十八番地の二軒長屋へ転居し、8月6日から荒物雑貨・駄菓子店を開業した。一葉の文学にとって半井桃水との出会いが第1の転機とすれば、ここでの生活体験は第2の重要な転機となっている。一葉は商売のかたわら暇を見つけては、上野の図書館に通い、真の文学、小説の在り方を探求しました。また、さりげなく吉原見物をしたり、店に来る子供達を観察しながら、鋭い人間洞察、社会認識を深めて、文学的にも人間的にも大きく成長した。一方で、商売の売上は思わしくなく、一葉は店を閉じ、明治27年5月1日に本郷丸山福山町四番地へ転居した。萩の舎で4つ上の姉弟子だった三宅花圃が書いた処女小説で、原稿料が33円20銭だったことを知り刺激を受け、貧しい一葉は小説を書くことに興味を持った。この後、明治27年12月に「大つごもり」を『文學界』に発表してから、連載されていた「たけくらべ」が完結する明治29年1月までの14ヶ月間という短い期間に、一葉の最高傑作といわれる代表作が全部執筆されている。この期間は、後の研究者によって<奇跡の14ヶ月>と呼ばれるようになった。一葉は、家族の生活を支えるために小説を書く決心をし、朝日新聞の小説および雑誌担当記者だった半井桃水に師事する。桃水の指導を受けたが、二人の仲をうわさするものもあり、一葉の方から絶好の手紙を送っている。その手紙の文面も掲示してあった。一葉の大事な恋だったのではないだろうかと不憫に感じた。
 この記念館には友人、恩師などへあてた一葉の手紙が多く展示されている。「私は生まれつき不調法で有り難いことを有り難いように言葉にも出せず、筆を執っても同様でただ心の中で思って居るだけなのでございます」と三宅花圃に書き送っている。それぞれに墨で書かれた手紙と、現代語訳があり、若い一葉の苦しみ、悲しみ、こころの動きがそのまま伝わってくるようだ。本名の奈津、一時用いていた夏子、そして小説「闇桜」から一葉というペンネームを使い始める。インドの達磨大師が中国揚子江を一葉の芦の葉に乗って下ったという故事に因んだものだ。浮世の波間に漂う舟という意識を持っていて「達磨さんも私も“おあし(銭)がない”」としゃれていたという。金港堂の雑誌「都の花」に「埋もれ木」を執筆し、20歳で文壇に登場する。この原稿料は11円75銭だった。一か月7円の生活を送っていた樋口家には大金だった。雑誌「文学界」に上田敏島崎藤村、北村透谷らとともに参加した平田禿木が、一葉の「埋もれ木」に感激し、文学界で活躍するようになった。 明治27年12月の「大つごもり」、28年1月の「たけくらべ」、4月の「軒もる月」、5月の「ゆく雲」、8月の「うつせみ」、9月の「雨の夜、月の夜」、9月の「にごりえ」、12月の「十三夜」、29年1月の「この子」、1月の「わかれ道」、1月には「たけくらべ」完結、2月の「裏紫」と一気に名作を世に送っている。まさに「奇蹟の十四ヶ月」(和田芳恵)である。擬古文による最後の作家といわれる一葉の「たけくらべ」は森鴎外が絶賛したのをはじめ、正岡子規らからも評価され、女流作家として華々しい活躍をする。しかし、一葉は文名があがることへの恐れと戸惑いも感じていたらしい。一葉は、「たけくらべ」完結から1年も経たない明治29年11月23日、肺結核で24歳で帰らぬ人となった。天寿を全うしていたら、どのような作品を書いたのだろうと想像する。
 ●完全現代語訳「樋口一葉日記」から、
・ 「一葉日記」が面白い。
・ たとえつまらない小説ではあっても、私が筆をとるのは真心からのことです。
・ 一番大切なことは親兄弟の為にすることです。
・ この世を生きていくために、そろばんを持ち汗を流して商売というものを始めようと思う。
・ すっかり怠けてしまったこの日記よ。
・ このような時代に生まれた者として、何もしないで一生を終えてよいのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら進んで行くだけです。
・ 青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ。
・ 務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来  ず、その一語一語が世のため人のためになるものです。
・ もし大事をなすに足るとお思いになりましたら経済的な援助をお与え下さい。
・ あの源氏物語は立派な作品ですが、私と同じ女性です。、、、。あの作品の後に、それに匹敵する作品が出てこないのは、書こうと思う人が出てこない からです。、、、今の時代には今の時代のことを書き写す力のある人が出て、今の時代のことを後世に書き伝えるべきであるのに、、、、
・ 世の中というものは本当にわからない所ですから、ただ見た目や噂だけでは信用できません。
・ 才能は生まれつき備わっているもので、徳は努力して養うものです。
紫式部は天地のいとし子で、清少納言霜降る野辺の捨て子の身の上であると言えるでしょう。
・ 世の中はいつも変わるものなのに、変わらないのは私の貧乏と彼の裕福だけ。
・ ようやく世間に名を知られ来て、珍しげにうるさい程もてはやされる。嬉しいことだといってよかろうか。これもただ目の前の煙のようなもので、私自 身は昨日の私と何の違いがあろう。
・ 私の小さな舟は流れに乗ってしまったのです。波の底の隠れ岩に舟が当たって壊れない限り、もう引き戻すことは出来ない。極みなき大海原に出にけり やらばや小舟波のままに
・ 毎日私を訪ねてくる人は、花や蝶のように美しい人々ばかり。、、、人々が寝静まった夜更けに静かに思えば、私は昔のままの私であり、家も昔のまま なのに、、、
・ 私を訪ねて来る人は十人中九人までは、私が女性であるということを喜んで、もの珍しさで集まって来るのです。
・ ともかく、これは一時の虚名を利用して、本屋はもうけ、作者も収入を得るためだけのことです。
・ しかし、どうして今さら世間の評判など。まさに、「一葉日記」は一葉の代表作である。
樋口一葉名言>
・色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう。.
・恋とは尊くあさましく無残なもの也。.
・身をすてつるなれば 世の中の事 何かはおそろしからん。 .
・丸うならねば、思う事は遂げられまじ。 .
・せつなる恋の心は尊きこと神のごとし 。.
・恐ろしきは涙の後の女子心なり。.
・只世にをかしくて、あやしく、のどかに、やはらかに、悲しく、おもしろきものは”恋”とこそ言はめ。

◆消費増税から1か月 反動減は。4月の百貨店売上速報では、そごう・西武高島屋三越伊勢丹などいずれも増税直前の駆け込み需要の反動減でいずれも落ち込んでいる。こうした中で松屋銀座は食料品売場を全面改装し、小田急百貨店は外国人観光客向けの売場をオープンするなど増税対策に乗り出している。また4ガツの新車の販売は5.5%減少した。
 新車販売台数は5%余減少し、デパート大手4社も前年同月比で減少した。日本総研・山田久チーフエコノミスト想定の範囲内と指摘する。高島屋(東京・日本橋)では商品力の強化を挙げ、40〜60代の女性を対象にした売り場を新設。4月の売上は3月とほぼ変わらなかった。田原和也副店長は「お客様が買いたくなる商品を提案できるのがポイント」と話した。
外食産業は予想に反し堅調。4月の売り上げはプラス8%だったロイヤルホスト(東京・世田谷区)営業・企画本部の吉田弘美さんは「お客様が節約している様子は感じられない」と話す。ぐるなび(東京・千代田区)広報の吉田知子さんは「いいものを高いお金で味わってもらうなど、工夫しているところは好調」と説明。メニュー刷新により約7割の客が“せれぶメニュー”を注文する溶岩焼ダイニングbonbori(東京・上野)・竹崎大史オーナーも、高額メニューの注文の多さに一安心していた。自動車業界では駆け込み需要の反動を抑える取り組みもある。スズキアリーナ多摩境(東京・町田市)では毎週金曜をレディースデーとし、女性客にスイーツとコーヒーでもてなす。前田和生店長はおもてなしで再来店の客を増やしたいと話す。
 安倍首相は消費税率を来年10月に10%に引き上げるか年内に判断する。今後の見通しについて日本総研・山田久チーフエコノミストは「実際賃上げもされているが、増税幅や物価上昇より賃金の伸びは小さい。成長力を加速するような対応が必要だ」と指摘した。

◆「極点社会〜新たな人口減少クライシス〜」(2014年5月1日放送 19:30 - 19:56 NHK総合クローズアップ現代」より)
 少子高齢化が進む地方では老人経済で成り立ってきたが、全国5分の1の自治体で高齢者が減少。墓を守る高齢者も減り、地方から都市部に遺骨を移す人が後を絶たない。自治体首長は「限界集落ではなく消滅集落」と話す。また、若い女性たちが東京に仕事を求める動きもある。大都市に人口が集中する極点社会による人口減少問題を考える。
 2008年から日本の人口は減少している。高齢者の人口が増えていると思いがちだが、最新の住民基本台帳を見ると高齢者の人口が減少している自治体は22%にのぼる。また、20代から30代女性たちの人口も急速に減少。出生率が低く子どもを産み育てるのが難しい大都市に移動することで人口減少がさらに加速すると懸念される中、日本の将来は極点社会に向かうと分析している。高齢者の減少が多かった徳島県を取材した。高齢化率38%の徳島・三好市。町の経済は高齢者の購買力に支えられてきたが高齢者が減り始めている。JAでは個人預金が12億円以上減少した。社会福祉法人 山城会の高齢者施設では満床だった部屋に空きが出始め、大きな影響が出ている。三好市役所で黒川市長に取材したところ「限界集落ではなく消滅集落、崩壊集落だ」と話していた。
 高齢者の現象が新たな人口移動を生み出している。社会福祉法人健祥会の中村太一理事長は今後の経営に不安をもち世田谷区役所を訪れ徳島だけでなく都会への進出を考えている。東京では地方の特別養護老人ホームがここ数年で急増している。鳥取・米子の社会福祉法人の就職説明会でも都内の配属を勧めている。若年女性も地方から東京へ流出している。増田寛也さん中心の専門家グループは都会への人口移動を懸念している。若年女性の人口移動推移予測に専門家グループと国とで開きがある。それは国のシュミレーションは移動の増減が繰り返されるという前提に立っていて、専門家は介護や医療の労働力需要が地方から都会へシフトすることを指摘している。増田寛也さんによると地方からは高齢者すら減り始めていてそれを上回る勢いで若年層が減っているという。
 若年女性の流入が続く東京は合計特殊出生率が飛び抜けて低い。都内の介護施設で働く松尾亜佑美さんの出身は長野県。多忙な仕事の中で異性との出会いはないという。東京では保育所の待機児童数も飛び抜けて多いので子育てをするとしても不安がある。こうした状況の中で女性の未婚率が最も高くなっている。未婚率が最も高く出生率が1を下回る新宿区は対策を講じようとしている。中山弘子新宿区長はこれは東京全体の問題であると思うと述べた。東京への若年女性の流入によって人口減少が更に進むので食い止められなければならない。出生率だけでなく若年層の絶対数が減っていることがまず問題である。人口減少社会を過ぎで極点社会になってしまうことに危機感を感じている。

◆『“挑戦してこそ伝統は守られる”143年続く食の老舗企業』(2014年5月1日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京カンブリア宮殿」より)
 ある週末。中野区のとある家庭では百貨店で買って来たお惣菜を使って近所の人達とランチを楽しんdねいた。今デパ地下で大人気のお惣菜だが、この人がお気に入りの店が「柿安ダイニング」。池袋の西武百貨店にある柿安ダイニングの店舗では多くの人が列を作っており、特に人気なのは「大海老マヨ」で、他にも「ローストビーフサラダ」「照り焼きチキン」などが人気となっている。柿安は「デパ地下に革命を起こした店」と言われている。その大きな理由は、日本初の「店頭厨房」を導入したこと。年間150万食を売り上げる「黒毛和牛 牛めし」も店頭で作っている。更に柿安では店の地下でも商品を作っている。柿安では専用厨房を持たせてもらうことが出店の絶対条件となっている。またエビを揚げるときもはさみで衣の口当たりの悪い部分をカットする細かい気配りもある。盛り付けにはすべての食材を土台の段階から均等に盛り、エビをあえて縦に盛っている。縦に盛ることで崩れにくく、商品に迫力が出てくる。これを柿安では「攻める」盛りつけと呼んでいる。柿安では客の流れに応じて店長が惣菜のラインナップを変えている。午前中は高齢者向けの惣菜を中心に並べ、客層が変わったと判断すると店長が厨房に指示を出して惣菜の作る量を変えている。夕食が近くなると、つまみやおかずを中央に集める配置に変更する。店長は、売り場に店長がいて、厨房兄は料理長がいる。この協力によって売上も変わるし、店の雰囲気も変わってくると話した。
 三重県桑名市に本社を置く柿安本店は140年以上続く老舗で、精肉店をメインに料亭やレストラン、和菓子専門店などを展開している。売上高は425億円、内食中食外食のすべてを手掛けている。柿安では毎月10品の新商品を開発。新商品の検討会に柿安・赤塚保正社長が参加したが、独自の感覚で盛り付けの色彩などを指摘していった。店頭に置くかどうかの全決定権をもつ赤塚は「売り出した以上はその商品の責任はすべて私にある」と話した。スタジオには「イタリアンマリネ」、「大海老マヨ」など柿安本店の惣菜が用意され、小池栄子村上龍が堪能した。赤塚保正社長は柿安ダイニングが進出した17年前から百貨店に厨房を設置し、コストはかかったが腕が良い職人が作る出来たてを提供することができたとコメント。また社長曰く、20代前半の店長でも商才がある人はどんどん挑戦していくとコメント。
 三重・桑名市の柿安料亭本店は赤塚安次郎によって創業され、客の目の前で調理するという手法で好評を博した。また2代目は牛鍋に使用する牛の飼育を始め、跡取り達は時代とともに業態を広げた。5代目の赤塚保は店を全国展開したが、2000年代に発生したBSE問題で日本中で牛肉離れが発生した。店は1億8000万円の赤字を計上したが、柿安本店は従業員は1人も解雇しないことを通知した。デパ地下にプロの料理人によって作られる惣菜店をオープンし、翌年にはV字回復を達成。柿安本店の赤塚保正は先代から社長を引き継ぐ際に「美味しいものをお値打ちに提供する」という経営理念を決して変えるなと言われたという。そこで赤塚はアルカード 亀有に団子の専門店をオープンし、「よくばり団子 いちごミルク」、量り売りしている「桶だんご」など伝統を継承しつつ斬新なだんごを開発した。柿安本店の赤塚保正社長は創業者の赤塚安次郎は果物売りだったが牛鍋は流行ると先見性があり、5代目の赤塚保もBSE問題で牛肉離れが進むなか惣菜事業に乗り出したとコメント。そして社内の腕が立つ料理人に惣菜事業は成長事業になると訴え、頑張ってくれたという。柿安本店の赤塚保正は先代から社長を引き継ぐ際に経営理念以外は好きに変えろと言われた事について、変化が激しい時代の中で今の若い世代と中心にやっていけというメッセージだと思ったとコメント。西武池袋本店 柿安精肉店では三重県発祥の松阪牛、独自ブランドの柿安牛を打ち出している。三重・桑名市にある牧場では独自にブレンドしたエサで質の良い牛が育てられていて、全頭買いすることで精肉店ではお値打ち価格で販売できるという。柿安本店の赤塚保正社長は栃木・小山市でとちおとめを減農薬で栽培しているハウスを訪れた。社長は生産者のイチゴを使って大福を販売したいと考えていて、生産者に商品を試食してもらい、全量買いした。さらに社長は大福に使用できない小さいイチゴを使った惣菜を作るように指示し、東武宇都宮百貨店 柿安ダイニングでは「イチゴと生ハムのサラダ」が作られた。柿安本店の赤塚保正社長は原価などで売価を決めるのではなく、お客が商品の価値を認めればお値打ちとして商品は売れるとコメント。さらに社長は自社製品を愛することで、さらなる発展ができると語った。
 収録を終えた村上龍は柿安本店について、「歴代のリーダーは創業者や先代の達成から継承すべきことを守り、時代状況を読み取って新商品、業態を開拓してきた。その成功の裏には脈々と息づく強烈な好奇心、冒険心、実行力がある」と評した。

<今日の出来事>
・都心で初「夏日」を記録。列島が高気圧に覆われ、南から暖かな空気も流れ込み、各地で今年一番の暑さを記録した。都心でも25.6度を記録し今年初の夏日となった。熊谷市では、最高気温が27度を超え、熱中症予防を呼びかけるメールを配信している。ペンギンは暑さに弱いため、葛西臨海水族園ではゴールデンウィーク以降はペンギンの屋外展示を取りやめる。

<昨年の今日>おとなり日記(4月30日分)から「昭和の日」の解説をみる。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130502/p1