寒い正月二日目。『戦後70年 ニッポンの肖像。」青学初の往路優勝。

◆今日も寒い一日。一日、実家の掃除、片付け、そして親の世話で一日で追われる。

◆昨日から始まった日経の特集シリーズ。毎年、毎年その年の社会を見据えて特集を組んでいる。今年のテーマは「働きかたNext」。どんな展開になるのかみていきたい。
 そして、昨日は、「職場に増える女性や外国人、シニア。周囲の風景が様変わりしていませんか。長時間労働や年功を前提にした働き方はもう限界です。慣習にとらわれず、時代にあった働き方を創る。その主役はあなたです。」テーマは「仕事を見つめ直そう 変えるのはあなた」です。
 ①「多様な勤務体系、競争力に」 楽天・三木谷会長兼社長
 ・年功序列や終身雇用など日本型雇用をどう評価しますか。
 「コインの裏表だ。組織が安定したことでチームワークが良くなった。半面、組織内での流動性が低 くなり、社内の人材を生かし切れていない。働き方を硬直的にとらえてしまったことが、日本の競争 力をそいでいる」と語る。
 ②「脇道だけの整備、脱却を」 佐々木イー・ウーマン社長
 ・働き方改革の必要性が叫ばれています。
 「世界経済フォーラムが2014年まとめた『ジェンダー・ギャップ指数』によると、日本の男女平等の 度合いは142カ国中104位。世界有数の女性の力を日本は全く生かせていない。同じ価値観の男性を中 心にした業界や会社が機能しなくなっていることは明らか」と語る。

◆『戦後70年 ニッポンの肖像 プロローグ 私たちはどう生きてきたか』(2015年1月1日放送21:00 -  22:15 NHK総合 「NHKスペシャル
タモリ有働由美子堺雅人が新年の挨拶をした。タモリ終戦後1週間目に生まれ今年70歳となると話した。
・70年前の日本は焼け野原で、そこから這い上がろうとする人々の姿があった。戦後70年、私たち日本人はどう生きてきたのか。有働由美子三宅民夫が挨拶し、ゲストのタモリ堺雅人らを紹介した。戦後70年で一番よかった時代はというテーマでトークタモリは飲み屋・バーが楽しくなってきたバブル崩壊以後が好きだと話した。
タモリと語る戦後ニッポン
 1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。戦争で310万人が命を落とした。東京も福岡も焼け野原だった。8月22日に天気予報が再開、戦時中は軍事機密で禁止されていた。食糧難で、多くの人がトラックの荷台から落ちたとうもろこしを拾った。東京の闇市や戦後初の神戸の正月の映像が紹介された。ダグラス・マッカーサーは日本の軍事化と民主化を進めた。進駐軍用の店ができ、英会話の本が爆発的に売れた。広島には台湾から帰国した。みんなカメラにお辞儀をしていた。1946年11月3日に新憲法公布の祝賀行事が各地で行われた。昭和天皇は国民の象徴となり、戦前にはありえなかった国民との対話の様子が残っていた。美空ひばりが東京キッドで国民を元気にした。ラジオでのど自慢素人音楽会が行われた。1948年にはお見合い大会が行われ、結婚ブームが訪れ、ベビーブームが行われた。タモリは当時の赤ちゃんコンクールで優勝したと告白。この世代が団塊の世代と呼ばれた。
終戦直後の日本人
 タモリは昔赤ちゃんコンクールで優勝したことをカミングアウトした。また、終戦してから敵国を味方に変えていく考え方は、映像を観たら子どもが積極的にやっていたと話した。タモリは作家・星新一に、終戦の8月15日に皇居を通ったら人がいなく、泣き崩れる人々も見なかったと聞いたと話した。
・特需景気
 1950年に朝鮮戦争で特需景気が起きた。アメリカ軍が武器を大量に買った。1951年にサンフランシスコ講和条約日米安全保障条約を締結。吉田茂首相が国際社会への復帰を宣言した。ジャズブームが起こったが、タモリは当時の音楽は外国から入ってくると全部ジャズにされたと解説。国民は街頭テレビで、力道山石原裕次郎嵐を呼ぶ男に夢中になった。新橋には1万人が集まり、東京タワーが世界一の高さで完成。今の天皇陛下のご成婚に沿道には53万人が集まった。安保闘争が起こり、1か月間、空前のデモで10万人が国会に集まった。
・復興と“独立”
 戦後日本の復興についてトーク。外国の戦争によって朝鮮特需で日本が豊かになるというのは複雑だと堺雅人が話した。アメリカ軍の壊れた戦車などが日本に運ばれてきてそれで東京タワーが作られたとタモリが話した。東京タワーは設計士の内藤多仲が担当した。中園ミホは子どもの頃は美智子様に憧れていたと話した。堺雅人は新憲法公布が嬉しかったのが不思議だと話した。
・高度経済成長
 1960年に池田勇人首相は所得倍増計画を実施。好景気で集団就職、通勤ラッシュが始まった。1964年東京オリンピックが日本人を1つにした。東京の道はぼこぼこで日夜突貫工事が行われた。五輪9日前に東海道新幹線が開業した。ブルーインパルスの松下治秀さん淡野徹さんらがジェット機で五輪の輪を描いた。中園ミホは窓からみんな見ていたと話した。西村克重は日本の平和国家を見せたかったとした。
1964年の東京五輪タモリも見ていて、閉会式でグチャグチャと選手が入ってくる伝統はこの時からだと話した。タモリは新幹線は十河信二国鉄総裁が有力大臣の家に朝行ってお願いし、莫大な予算は半分で国会に提出して、追加させたと解説。半藤一利池田勇人元首相が月給2倍論をかかげたときに無理だと否定していたが、空論だという声はなかったと話した。
・高度経済成長はさらに加速
 高度経済成長期が加速、当時モーレツ社員という言葉が流行った。新橋では会社の屋上で歌を歌い士気を高めた。1964年に国民総生産が世界第2位になった日米繊維交渉で日米貿易摩擦が始まった。佐橋滋は国家総動員で行かないと日本は立ち行かなくなるとした。1970年に日本万国博覧会が開催、人間洗濯機が注目された。現在は介護用に実用化されている。経済成長で公害が起こった。新宿西口ではベトナム戦争反対の集会が行われた。中園ミホは父親と見に行ったと話した。タモリはこんなライブは2度とないとした。1973年にオイルショックでパニックに陥った。この頃、赤塚不二夫のおそ松くんの「シェー」が人気だった。ジョン・レノンや皇太子様らまでしていた。タモリ赤塚不二夫に見出された。
・1980年〜90年代
 1982年に笑っていいとも!放送開始。1985年プラザ合意円高、バブル時代に突入した。アメリカでは海外の土地などを買い漁る日本人を報道。1989年昭和天皇崩御、株価は史上最高値をつけた。その後、バブル崩壊で最悪の不況に突入。1995年に阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件が発生した。司馬遼太郎は正しいと信じていたことが全てウソだとわかったと指摘した。  
・バブルから震災・オウムへ
 タモリはバブル景気がおかしかったとし、融資を断ったら、馬鹿だと言われたと話した。半藤一利は当時はベルリンの壁崩壊、天安門事件ソ連アフガニスタン撤退などがあったが日本では株価最高値だったとした。タモリはバブルの隙にオウムがあったとした。堺雅人は芝居を始めた頃で、根っこは同じだったとした。中園ミホはバブル後はトレンディードラマでは視聴率が稼げなくなったとした。阪神・淡路大震災オウム事件で日本の安全神話が崩壊したとした。半藤一利は日本人は繁栄のために何かを忘れていたとし、タモリ明治維新でも江戸をすべて否定したと解説。堺雅人は日本人はリセットしたがる傾向があると話した。
・大震災と原発事故
 2011年3月11日に東日本大震災福島第一原発事故が発生。伊集院静はこれほど人的、経済的に被害を被ったのは戦争しか知らないとした。ノーベル賞を受賞した赤崎勇は暗い戦争体験に、再出発するしかないと話した。天野浩は青色LEDを作り、次は世界に広めるとした。
・戦後70年を迎えて
 中園ミホは今は自分で調べたいとし、日本人は強い事を知ったとした。半藤一利司馬遼太郎は日本人の7割が考えて「自然にやさしい」など合意できることをやれば良くなるとした。タモリは各国資本主義は行き詰まっている、全く違うものにするか手を加えるか、大多数が合意できることを日本の従順さ、勤勉さを持つ日本しか出来ないことだと話した。
** タモリの文明批評。この企画は戦後70年を振り返り、面白いものである。

<1月2日生まれの先人の言葉>
壇一雄
 ・お前達の前途が、どうぞ多難でありますように…。多難であればあるほど、実りは大きいのだから。


◆正月恒例の箱根駅伝、青学初の往路優勝。