阪神・淡路大震災 あす20年。

<今日のニュース>
阪神・淡路大震災 あす20年。
 ●阪神・淡路大震災からあすで20年となる。神戸市須磨区の住宅街にあるプレハブの美容室を紹介された。この美容室は震災直後にプレハブで仮営業を始めたが、そのまま現在に至っている。震災当時で止まったままの時計が、この美容室に設置されていた。時計について美容室を経営する西薗さんは、「震災を忘れないために近所の方からも掲げてほしいと言われた」と話していた。プレハブにこだわっているわけではないが、建て替えようと思っているといつのまにか時間が経ってしまったという。
 この美容室は、多くの人が利用しており、美容室というより地域の集会場のようになっていた。客のほとんどは震災前から通っていた常連。常連客だという3人の子連れの男性は、子どもたちを店に外に連れ出して止まったままの時計を見せている。西薗さんの美容室は、震災の記憶を語り継ぐ場にもなっていた。阪神淡路大震災の際、西薗さんの地域はほとんどの家屋が全壊し、西薗さんの家屋も住めない状況となった。その5ヶ月後に現在のプレハブで美容室を再開。地域の人からの「早く再開してほしい」という声に押されてだった。
 牛乳販売をしている西口さんにとって、古くから付き合いのある西薗さんはよき相談相手だったという。西薗さんは当初、5年で建て替える予定だったが経済的な余裕がなく、実現できなかった。それでも20年間続けられたのは、地域の人とのつながりがあったからだという。震災前から美容室を利用していた客は、今は3分の1しか来店していない。しかし西薗さんによると、遠い場所から通ってくる人もいるために嬉しいこともあるという。震災当時の話を美容室ですると話が盛り上がるらしく、西薗さんは「まるで昨日のことのように思い出せる」と話した。西薗さんは、「試されているという感じがあった。負けたらいけないと思った」と語った。
 神戸大学の准教授である近藤さんは、地域がどう再生するのか、神戸の復興から学ぼうと調査・研究をしている。震災当時、近藤さんは神戸大学の学生だった。学生時代、近藤さんは犠牲者ひとりひとりの死を明らかにしようと、「震災犠牲者聞き語り」調査を行っていた。この調査を通じて、被災した街を安全な街にするという研究者としてのテーマが固まったという。近藤さんは、一番忘れられない話として1歳の男の子の調査結果を紹介した。聞き取りをしたのは360人。そのことばのひとつひとつが近藤さんの原点になっている。近藤さんは、たびたび長田区の野田北部地区に調査に訪れている。ここは、被災した住民自らが街を再生させた地域。その中心となった住民の一人である河合さんのもとを訪れた。木造家屋が密集していた野田北部地区は、大規模な火災で多くの家屋が焼失し、41人が死亡した。河合さんが最もこだわったのは道幅を広くすること。この案を提案したとき、土地が狭くなるため住民から反発の声が出たが、住民に粘り強く説明を続けた結果、全員の合意を取り付けた。近藤さんは、みずからの研究を東日本大震災の被災地復興に活かそうとしている。その1つが岩手・大槌町の高校生と神戸大学の学生が、共同で街の変化を記録し続けること。
 ●追悼行事が行われる東遊園地では、犠牲者を悼み竹の灯籠が約1万個並べられた。震災直後の様子を映した20箇所の防犯カメラの映像が、東京大学で見つかった。全半壊の住宅は約24万9000棟、死亡者は6434人だった。伊丹市では犠牲者と同じ数のロウソクに火が灯された。天皇・皇后両陛下は追悼式に出席するため、今日神戸空港に到着した。各国の防災担当者も神戸に集まり、兵庫県の井戸知事らとともに震災の経験をどう伝え続けていくか話し合った。神戸市によると、住民の40%は震災を経験しておらず、防災意識が薄れているという。防災訓練を積極的に行ったり、震災経験を語り継いだり、住民等による取り組みが続いている。東遊園地からの中継では、様々な世代の人達が集まり、震災経験を語り継ぐ催しが行われている。
◆インフルエンザ 今月11日までの1週間 推計206万人 去年のピーク時上回る “薬局のデータで流行状況を把握”。
 今月11日までの一週間で、インフルエンザで病院を受診した患者は推計206万人で、去年のピーク時を3週間ほど早く上回っている。全国の薬局で、蓄積データから治療薬の行方を追うことで感染拡大の新たな分析を行う「薬局サーベイランス」 という試みが行われている。参加する薬局は1万余。そのデータから今月は33万人が受診し、1週間前より増えており、感染拡大のペースが落ちていないことがわかった。薬が買われた翌日には推計可能で、年齢別の分析も可能だという。それによると、一旦減少した子供の割合が増えており、学校などが始まり感染拡大が再び本格化したとみられる。

<今日の偉人資料館>
◆旧井上馨別邸の宿 http://www.yukoyuko.net/5284/
 ・逸話 仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸等多数。長寿だったため、大甥である鮎川  義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている。恩義を忘れぬ情厚き  面があり、旧藩主毛利家一族や長井雅楽高杉晋作の遺族や、命の恩人の医師・所郁太郎の子孫に手厚く報いた。明治8年に高杉の愛人梅処尼が貧困  に苦しんでいた所を有志を募り生活費を与え、明治14年から3年かけて寄付金を集め、明治17年に東行庵を建てて梅処尼を住まわせたこと、明治23年  から26年にかけて毛利一族の結束を図り家憲を制定、明治25年から毛利邸建築に着工(完成は大正5年)したことなどが挙げられる。また、明治25年  と明治34年に右田毛利家が経営する第百十国立銀行が経営危機に陥ると、伊藤らと共に財政援助を行い破綻を防いだ。第百十銀行は後に他の銀行と  合併、山口銀行が誕生した。親友は吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作伊藤博  文とは終世親しく交際していた。

<1月16日生まれの偉人・先人の言葉>
◆鍋島 直正(なべしま なおまさ、文化11年12月7日(1815年1月16日)〜明治4年1月18日(1871年3月8日))は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。「佐賀の七賢人」の一人。
 ●佐賀の七賢人とは
 ・鍋島直正(閑叟)1814年(文化11年)に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年天保元年)に佐賀藩の第十代藩主となる。 武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年天保5年)に佐賀城下に医学館を建てる。(この後好生館と名を変え、今の佐賀県立病院好 生館の原型となっている。)1850年嘉永3年)に今の佐賀市反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し大納言の位を受ける。1869年(明治2年) に北海道開拓使長官となるが任地に赴くことなく1871年明治4年)死去。
 ・佐野常民1822年(文政5年)に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年安政2年)に日本初の蒸気機関車模型を完成させる。1867年(慶応3年)にパリ 万博にて赤十字について知る。1877年(明治10年)に大給恒らと博愛社を創設。1880年明治13年)大蔵卿に就任。1887年(明治20年)に博愛社を日 本赤十字社と改める。1902年(明治35年)死去。
 ・島義勇1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。1856年(安政3年)〜1857年(安政4年)に北海道と樺太を探検・調査。1869年(明治2年)に北 海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。1871年明治4年)に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年(明治7年)に佐 賀の乱で敗れ、刑死。
 ・副島種臣1828年(文政11年)に今の佐賀市に生まれる。1869年(明治2年)に参議、1871年明治4年)に外務卿、1892年(明治25年)に内務大臣に 就任。1905年(明治38年)死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
 ・大木喬任1832年天保3年)今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年(明治元年)に東京府知事1871年明治4年)に初代文部卿、1873年明治6年) に参議、司法卿、1880年明治13年)に元老院議長に就任。1899年(明治32年)に死去。
 ・江藤新平1834年天保5年)佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1871年明治4年)に廃藩置県を行う。1872年(明治5年)に司法卿、  1873年明治6年)には参議に就任。1874年(明治7年)佐賀の乱で敗れ、刑死。
 ・大隈重信1838年天保9年)、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年(明治3年)、参議、1873年明治6年)、参議兼大蔵卿になる。1882年(明治15 年)3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)を開校。1888年明治21年)、外務大臣、1898年(明治31年)、内閣総理大 臣(第1次大隈内閣)。1914年(大正3年)、二度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年(大正11年)死去、国民葬
椎名悦三郎(しいなえつさぶろう、1898年(明治31年)1月16日 - 1979年(昭和54年)9月30日)は、日本の官僚、政治家。当時副総裁であった椎名は、田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した、俗に言う「椎名裁定」で知られる。
・名言『私は国家、国民のために神に祈る気持ちで考え抜きました。私は新総裁にはこの際、政界の長    老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここにご推挙申し上げます。』