今日から仕事再開。今週で早いもので1月も終わり。

◆今日から、仕事再開。早いもので今週で1月も終わり。来週から2月。寒さも昨日は和らぎ、3月上旬の天気で各地とも天気が良かったようだが、こんしゅうは週半ばに天気が悪くなるみたい。まだまだ節分を迎えておらず、寒さも一段と厳しいかも。そういえば、首都圏では積雪の話題がない。これから先月、センター入試があったが、まさに受験シーズン到来。天気が悪いと、寒く大変な時期を受験生は迎えるのですね。

<今日のニュース>
通常国会がきょう開幕「戦後70年談話」も焦点に。
 通常国会が開幕。安倍総理が戦後70年を機に、新たな総理談話を発表するとしている総理談話について、野党側はこれを正したいとした。これまで戦後の節目に出された村山談話と小泉談話は、戦争の際にアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えたとし、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとしてきた。総理はこうしたキーワードを使うのではないかと聞かれると、そういうことではないと使わない意志を明示。この発言に民主党岡田克也代表は「国会などでしっかりと審査していきたい」と話した。菅官房長官は「表現をどうするかはこれからの事になるだろう」
と話した。

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<1月26日生まれの偉人>
◆甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年(明治24年)1月26日 - 1945年(昭和20年)8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。
 ●名言・『人間は一度別れて再び会えると思うことはまちがいなのです。再び会えないと思うのが正しいのです。』
◆盛田 昭夫(もりた あきお、1921年(大正10年)1月26日 - 1999年(平成11年)10月3日)は、日本の技術者、実業家。井深大と共に、ソニー創業者の一人。太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に戦時科学技術研究会で井深大と知り合う。終戦後、1946年(昭和21年)に井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、取締役に就任。 1950年(昭和25年)日本初のテープレコーダー「G型」を発売。1955年(昭和30年)日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売。1979年(昭和54年)ウォークマン発売。
 井深大と共にソニーを世界企業に育て上げ、井深の技術的発想を実現すると共にソニーの発展を第一として活動、技術者出身ながら営業の第一線にあり、トランジスタラジオ、ウォークマン等を世界に売り込んだ。盛田の最大の能力は、資金調達にこそ見られる。松下などに比べ、その規模で、はるかに劣る当時のソニーが、技術開発の資金を調達することは、並大抵の努力では出来なかったことは想像に難くない。しかし、盛田は見事にそれをやりぬき、トリニトロンの商品化を実現する。
●名言・『アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。』
    ・『自分を開発し、発展していくためには、他人と同じ考え、同じ行動をしてはいけない。』
◆藤本 義一(ふじもと ぎいち、1933年(昭和8年)1月26日 - 2012年(平成24年)10月30日)は、日本の小説家、放送作家。本名の読みは「ふじもと よしかず」(ただし、戸籍上は「ふじもと よしかす」)。大阪を舞台にした作品を書き、エッセイも数多い。日本放送作家協会関西支部長とプロ作家を育成する心斎橋大学総長も務めた。夫人はタレントの藤本統紀子
 1951年4月、浪速大学(現・大阪府立大学教育学部に入学し教師を目指していたが、教育実習で現場教師が虎の巻を見ながら授業をしているのをみて幻滅し経済学部へ転部。もともと演劇好きで演劇部に入部する一方、日本拳法部の創設に関わった。役者より劇作家の方を志し、在学中から数十編のラジオドラマ、その他の脚本を書いており、卒業前年の1957年(昭和32年)に執筆したラジオドラマ作品『つばくろの歌』で同年度の芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞。次席が井上ひさしで「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くからその才能は高く評価されていた。この年、戯曲「虫」を関西芸術座、「トタンの穴は星のよう」を劇団「蟻の会」で発表。1958年(昭和33年)に学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚し、枚方市に住む。1968年(昭和43年)に長編小説第1作『残酷な童話』を発表。次作『ちりめんじゃこ』で1969年(昭和44年)第61回直木賞候補、62回に『マンハッタン・ブルース』で候補、65回に『生きいそぎの記』で候補となり、1974年(昭和49年)に上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で第71回直木賞受賞。以後文芸作品からエッセイ、社会評論などの著作を多数発表する。サラリーマン経験は無いものの、「いかにサラリーマンはあるべきか?」という問いに独自の意見がある。また近世上方文学の研究者で、特に井原西鶴を研究している。大阪出身の織田作之助をテーマにした『蛍の宿 わが織田作』『蛍の宴』『蛍の街』『蛍の死』の長編四部作、安国寺恵瓊(の男性自身)を主人公とした『二寸法師』などがある。他に人生案内エッセイ『お嬢さん、上手な恋をしませんか』など多数、自伝『やさぐれ青春記』。
 1975年(昭和50年)『雨月物語』の現代語訳を発表。上田秋成を書こうとした矢先、井伏鱒二から執筆を止めるよう説得された。これは、上田秋成を書いた人は非業の死を遂げると共に、本居宣長の力によってそちら側から資料が書かれている故に仕事に行き詰まる事からという理由であった。しかしこれが井原西鶴の研究のきっかけとなり、『サイカクがやって来た』(1978年(昭和53年))、『元禄流行作家-わが西鶴』(1980年(昭和55年))などを発表。
 ●名言
 ・『行き詰まっても、他人がくだらないと評価するようなことを真剣にやっているうちに、思いがけない喜びが、天の方からガツンと来よる。』
 ・『「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、成功の最大の秘訣は己の仕事に惚れぬくことでしょう。』
 ・『 私の家では「疲れた」「しんどい」は禁句。そんなことを言っても何の役にもたたないどころか、まわりの人を暗くしてしまう。』
 ・『 人生は己を探す旅である。』

<1月26日の歴史>
◆1948年帝銀事件。帝国銀行椎名町支店で行員12名が毒殺され、現金・小切手18万1千円が強奪される。1949年法隆寺金堂が漏電により火災。国宝の壁画のほとんどが火災と放水で損傷。1958年紀州沖で南海丸が沈没。死者167人。1979年大阪・住吉区三菱銀行北畠支店で強盗事件。警官と行員4人を殺害し客らを人質に42時間籠城。28日に犯人を射殺。1985年大阪府吹田市で一和会系組員が竹中正久・山口組組長ら高幹部3人を射殺。山口組と一和会の抗争が勃発。1992年貴花田が19歳5か月の史上最年少で幕内優勝。1999年中央省庁を1府12省庁に再編する「中央省庁改革関連法案大綱」が決定。 2001年山手線新大久保駅でホームから転落した人と助けようと線路に降りた2人が電車に轢かれ死亡。