池上彰が語る「言葉から知る戦後70年」

「言葉から知る戦後70年」(2015年2月23日放送 19:00 - 21:48 テレビ朝日「ここがポイント!!池上彰解説塾」より)
●1930年〜1950年代 言葉で戦争が始まり言葉で終わった
 歴史に残る戦争の言葉を池上解説。1941年の真珠湾攻撃を皮切りに日本は戦争に突入、国は「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など我慢強制のスローガンを次々を発表した。しかし国民はただ黙って従うだけではなく、スローガンに一文字加えて「ぜいたくは“素”敵だ」などのいたずらをした人もいたという。第二次大戦のそもそものきっかけはドイツの独裁者・アドルフ・ヒトラー、1930年代前半の経済どん底の状況を利用し巧みに世論を誘導、「国民自身が国民を向上させるのだ」との演説を行った。池上は、あの頃はラジオの時代で、もしテレビがあれば小柄で貧弱なヒトラーは支持が得られなかったかもしれないと解説した。1945年、日本の終戦を告げたのは玉音放送。その直前に「重大発表あり」との通知があり国民がラジオの前に集まったが、多くの国民にとっては「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」という言葉がよくわからなかったとされる。池上は、昭和天皇の言葉のあとの解説で初めて分かったとされると解説した。
●世界中が注目した名演説 東西冷戦時代を象徴する言葉
 1946年、アメリカを中心とする資本主義国とロシアを中心とする社会主義国でヨーロッパが対立、イギリスのチャーチル元首相は「鉄のカーテンが降ろされた」と表現し、東西冷戦に突入した。冷戦まっただ中の1961年、宇宙開発の分野でソ連に遅れをとっていたアメリカだが、ケネディ大統領は就任演説で「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかだ」との名言を残した。
●1950年代・1960年代 「もはや戦争ではない」 日本はどうやって復興した?高度経済成長 政治家の言葉で日本が見える
 急激に経済が回復した日本について、経済白書には「もはや戦争ではない」と書かれた。当時まだエネルギーの主役だった石炭が国内では多く眠っており、政府は「傾斜生産方式」で石炭産業に集中、炭鉱労働者も専用の住宅を作るなど特別扱いとなった。現在もこの名残を麻生山田炭鉱跡など各地で見ることができる。また現在も石炭は使われてはいるが、安い石炭を輸入して利用している。戦後もアメリカは沖縄の統治を続けていたが、1965年、戦後初めて沖縄を訪問した佐藤栄作総理(当時)は「沖縄の祖国復帰なくして戦後は終わらない」と発言、これをきっかけに返還運動が強まり、7年後に返還された。
 池上は「戦後70年は国が一体となって傾斜生産方式に協力をし、それによって経済が発展してきた。」とコメント。1953年にNHKで初のテレビ放送が開始された。吉田茂総理(当時)が「バカヤロー!」と叫び衆議院は解散になったという風に言われているが、答弁後に思わず小声で呟いたのをマイクが拾ってしまってしまいそれが、「バカヤロー解散」。吉田元総理は、自衛隊設置時に「自衛隊が批判される時は国民が幸せな時。」との言葉を残した。。国民の生活が豊かになったきっかけの言葉は、池田勇人総理の所得倍増計画について「私は嘘は申しません」の言葉。1960年日本の経済を発展させるために所得倍増計画を行った。これにより一世帯あたりの年間収入が7年で倍になった。10年後には3倍近くも上がった。池上彰は1973年にNHKに入局した。この時期はベースアップにより4月の月給が3万くらい上がった。池上彰の場合翌年には1万2000円上がったという。所得倍増の訳はインフラ整備だと言われている。道路などインフラ整備をすれば物流が進み、輸出も増え、街が発展していった。それにより景気が良くなり給料もアップした。そのお金を集めようとしたのが銀行だった。銀行に預金を推進するキャンペーンとして「子ども銀行」を実施した。子ども銀行は教育の一環で児童が口座を作り、学校で預金・引き出しができるものだ。これがきっかけで預金が習慣になった。こうしてお金を集めた銀行は会社に融資し、会社は設備投資をして生産を拡大することで社員の給料が増えた。
●1960年代 「高度経済成長」 三種の神器が売れまくった
当時一般庶民が買った3つの家電は白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫だった。白黒テレビによりCMが放送され、物欲に火がつき消費者が活発になる。民放テレビ放送が開始した日のCMではセイコーホールディングスが「目覚まし時計・巻き方編」という時報を伝えるCMを流した。洗濯機が普及する前は洗濯板で洗っていたため欲しがる人が多かった。1955年には新潟で電気洗濯機の実演販売を行った。冷蔵庫の普及により人々は冷えたビールが美味しいことを知った。これによりビールの消費が爆発的に増えた。今の若者の三種の神器について「スマホがあれば何でもできるため、ほしいものがなくなっている。」などと池上彰は解説した。
●時代を象徴する懐かしい言葉
1950〜60年代の日本を象徴する言葉を池上が解説。1959年、当時の皇太子さまと美智子さまがご成婚し「ミッチーブーム」が生まれた。ご成婚パレードを見るためテレビを買う人が急増するなど経済にも影響した。婚約発表の「ご誠実でご立派」も流行語となった。1960年代半ば、「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行語となった。長嶋・王が活躍する野球や、昭和の大横綱といった娯楽と肩を並べた卵焼きだが、卵は安くて栄養豊富で物価の優等生でありお弁当のおかずの定番となった。またCMでは「Oh!モーレツ」が流行しスカートめくりが流行したともされる。
 1961年 「地球は青かった」 日本だけの名言だった!?1961年、ソ連が世界初の有人宇宙飛行に成功したガガーリン空軍少佐が「地球は青かった」という名言を残したが、実は本人は宇宙から見た地球を長々と様々な言葉で表現していたが、日本の新聞社・出版社が見出しにした言葉が広まり、世界では「神はいなかった」という言葉が有名だという。1969年にはアメリカが人類初の月面着陸に成功、船長は「1人の人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては大きな飛躍」と語った。宇宙開発時代に突入したが、1963年の世界初の日米間衛星中継ではアメリカからケネディ大統領暗殺という衝撃的なニュースが伝えられた。
●1964年 東京オリンピック 今も残るアナウンサーの名言
 衛星中継技術が進化し1964年の東京オリンピックでは衛星生中継され全世界に送られた。東京オリンピックでは記憶に残る言葉が実況中継のアナウンサーによって生まれたバレーボールでの「金メダルポイント」、男子体操での「ウルトラC」などの明言が流行になった。また「ウルトラC」はウルトラマンのきっかけになった言葉である。この時日本は高度経済成長期のど真ん中で国民の生活に大きな変化があった。 
●テレビの進化で日本が変わった!?
 三種の神器が新三種の神器に呼ばれるようになった。それはクーラー、自動車、カラーテレビの頭文字のCを取って「3C」と呼ばれた。日本は景気がよくなり生活水準が向上したがカラーテレビはまだまだ庶民には高嶺の花でもあった。また教育テレビで最初にカラーになった番組は「理科の実験」でリトマス試験紙の色が変わる様子が放送された。テレビの登場は多くの企業が広告に力を入れ街頭テレビでスポンサーを説得したという。こうして高度経済成長期は企業がCMにお金を使い物が売れ経済が発展していた。
●世界中が注目した名演説 ケネディ元大統領が選挙を変えた!?
 1961年のアメリカ・ケネディ大統領の就任演説について池上解説。この選挙では初めてテレビ討論が行われたが、ケネディ候補は白黒テレビでの映りを考慮した服装をしていて、ラジオの聴衆とテレビの視聴者では討論の印象が正反対だったという。ケネディ大統領の歴史を変えた名言は冷戦時代東ドイツに囲まれた西ベルリンでケネディ大統領で行った演説での”Ich bin ein Berliner”「私はベルリン市民だ」という言葉。ドイツの人にドイツ語で訴えた。またアメリ同時多発テロでは私たちはニューヨーク市民だというプラカードが出た。
●世界中が注目した名演説 聞いたことあるあのフレーズ
 愛の名言を語ったのはマザー・テレサ。世界平和のために何をしたらいいかの問いに「帰って家族を大切にしてあげてください」と答えた。身近な人を愛することが大事だといういうのがマザー・テレサの教えだった。
●世界中が注目した名演説 人種差別問題へ 20世紀最高の言葉
 人種平等を訴えた名言が生まれたのは1963年人種差別反対のデモ行進の後のキング牧師の演説。その言葉”I have a dream”「私には夢がある」をきっかけに人種差別問題に世界が注目し、翌年に公民権法が制定された。記憶に残るキーフレーズを繰り返すことが心を動かす演説になる。
●激動の1970年〜1980年代
 1970年〜1980年代の歴史に残った言葉を紹介。スポーツ界では巨人の4番として長年活躍した長嶋茂雄の1974年の引退セレモニーでの「我が巨人軍は“永久”に不滅です」、池上は普通は「永遠」というが長嶋さんの独特の言い回しだと解説した。ヒット映画では「八つ墓村」から流行語になったキャッチコピー「たたりじゃ〜っ!」。「鬼龍院花子の生涯」では夏目雅子さんのセリフ「なめたらいかんぜよ!」。また飲み会では「イッキ!イッキ!」が流行したが事故も多発し社会問題となった。
1972年、佐藤栄作総理(当時)の辞任会見では「偏向的な新聞は大嫌い」と話し批判への恨みを爆発、会見場から新聞記者を全員退席させた。1979年には、大平正芳総理(当時)退任を求め一部議員が作ったバリケード浜田幸一議員が片付けているときに出た「かわいい子供達の時代のために自民党があるってこと忘れるな!」。
●1972年 「日本列島改造論」 今の日本の基礎を作った言葉
 1972年、田中角栄総理(当時)による日本列島改造論について池上解説。「より良い日本列島を作る」と語った田中氏は、日本海側も含めバランスよく発展するよう全国に中核都市を作り、新幹線・高速道路の計画を立て、新幹線は現在も計画が進行中。自らの言葉はベストセラーにもなったが、本について本人は「オレも読んでみようかな」と話したという。一方で公共事業に対する反対もおき、政治とカネが問題になり始めた。1976年、田中角栄総理(当時)がロッキード社の航空機を購入するよう働きかける見返りに5億円を受け取ったとの疑惑で、証人喚問も初のTV中継されたが、このとき関係者である国際興業社主(当時)が「記憶にございません」と発言した。池上は、議院証言法でウソを発言すると罰せられるための言い逃れの言葉で当時「この手があったか!」と思ったと話した。
●1990年代 失われた10年
 1990年代はバブル崩壊後の不況を克服できず、「失われた10年」と言われているが、スポーツ界では様々な名言が出ている。1992年のバルセロナ・オリンピックでは、競泳女子200m平泳ぎに出場した岩崎恭子選手が、見事金メダルを獲得し、当時14歳で「今まで生きてた中で1番幸せ」とう名言や、1991年に横綱千代の富士が引退した時は、「体力の限界」などと多くの名言が出ている。テレビコマーシャルなども時代を象徴するもので、1990年前半はピップエレキバンの「ダダンボヨヨン」やアパタイトの「芸能人は歯が命」などが流行った。1990年後半に入ると景気も悪化し、大手金融機関などが破綻に追い込まれた時代の名言は、1997年に経営破綻した山一證券の社長の「社員は悪くありませんから」などがある。1998年には田中眞紀子議員の「凡人・軍人・変人」が流行語大賞をとり、また小渕総理も多数の流行語を生み出した。 
●1993年 「侵略戦争だった」 戦後の総理 初めての発言。
1990年代は歴史的な出来事も起こっており、長らく自民党が政権を握っていた55年体制が崩壊した。1993年には細川総理が、大東亜戦争について「侵略戦争だった」などの歴史的発言も出ている。また細川総理は、質問にボールペンで指名をしたり、立って記者会見を行うなど、今では当たり前の行動を初めて行うなどし、話題となった。
●2000年代も政界の名言があり、小泉総理は「自民党をぶっ潰す」などと発言し話題をよんだ。また民主党菅直人民主党代表は、「未納3兄弟」という言葉を使い批判した。2005年 小泉チルドレン誕生 自民党の圧勝で新人が多く当選。2005年には衆院選で新人議員が数多く当選したことから、「小泉チルドレン」という言葉が飛び出したが、その小泉チルドレン杉村太蔵氏の「料亭に行ってみたい」などの発言が問題となったりもした。2008年9月の福田康夫総理(当時)の辞任会見の映像が流れる。記者の「一般には総理の会見が国民には他人事のように聞こえるという風な話がよくされていました」という発言に対し、普段な冷静な福田総理は「私は自分自身を客観的に見る事は出来るんです、あなたとは違うんです」と答える。2009年に民主党鳩山由紀夫内閣が誕生し、政権交代が日本中を沸かせた。目玉となった事業仕分け行政刷新会議)も話題の言葉となった。事業仕分けでの蓮舫議員の名言「2位じゃダメなんでしょうか?」の映像が流れる。700以上の国の事業を廃止、削減を行った。事業仕分けのその後はどうなったか。事業仕分けで仕分けられた事業は、名前を変え復活したものもあるという。名前を変えるなどで復活していた事業仕分け廃止事案を紹介。スーパー堤防、下水道事業補充金など。
●2000年代 スポーツからノーベル平和賞まで
 シドニーオリンピック女子マラソン金メダルの高橋尚子選手は「すごく楽しい42kmでした」。アテネオリンピック100m平泳ぎ金メダルの北島康介選手は「チョー気持ちいい」。2013年の東京オリンピック招致では滝川クリステルさんが「おもてなし」。一方、ライブドア堀江貴文元社長は「想定の範囲内」と語り流行語となった。
 また、2004年ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんは「もったいない」という日本語を世界に発信した。iPodiPhoneiPadなど革新的な製品で世界を席巻したアップル社の元CEO・スティーブ・ジョブズ氏は「貪欲であれ、馬鹿であれ」。2008年にアメリカ初の黒人大統領となったオバマ大統領は「Yes, We can」。2014年ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんは、襲撃されるなどの強攻にも負けず教育の必要性を演説した言葉。
●世界中が感動!!記憶に残る言葉 ハドソン川飛行機不時着
 2009年、USエアウェイズの飛行機がニューヨークの上空で両エンジンにトラブルがおき瞬く間に失速、もし墜落したら大惨事だったが、機長は難易度の高い川への着水を決断、見事ハドソン川に着水成功した。事故後機長は会見で「私たちはただ訓練通りのしごとをしただけ」と話し、世界中で絶賛された。
**池上彰は、歴史が大きく動くときに記憶に残るような言葉が生まれるがそれだけ言葉の力は強い、強さと怖さをもっと自覚したほうがいいと思うと話した。