古河太四郎生誕より170年。

◆古河太四郎(ふるかわたしろう、弘化2年2月20日(1845年3月27日) - 明治40年(1907年)12月26日)は、京都盲唖院(後の京都府立盲学校・京都府聾学校)を創設し、近代日本における視覚障害教育・聴覚障害教育の黎明期をリードした教育者。また、鷹峯・紅葉谷庭園の前身である灌漑池をつくった人物。更に、彼は京都盲唖院の生徒が日常的に使用していた手話に着目し、体系的な機能を持つ言語として教授用の手話を考察した。この際に考案された手話が現在、標準手話として制定されている日本手話の原型となっている。自然発生的に生徒間で使われていた手話を、古河は教育を目的に体系だった機能を持つ言語として洗練されたものにした。この時に誕生した手話が、現在標準手話として制定されている日本手話の原型となっている。彼の創設した京都盲唖院は、現在の京都府立盲学校・京都府聾学校として、現在まで存続している。古河が亡くなった1907年(明治40年)の30年後に当たる1937年(昭和12年)には、ヘレン・ケラーも同校を訪問した。
 ●京都府立盲学校資料室 http://www.kyoto-be.ne.jp/mou-s/siryousitsu/1page.html#siryousitu

<3月27日生まれの先人の言葉>
遠藤周作
 ・人間はみんなが、美しくて強い存在だとは限らないよ。生まれつき臆病な人もいる。弱い性格の者もいる。メソメソした心の持ち主もいる。けれどもね、そんな弱い、臆病な男が自分の弱さを背負いながら、一生懸命美しく生きようとするのは立派だよ。
 ・病気はたしかに生活上の挫折であり失敗である。しかしそれは必ずしも人生上の挫折とは言えないのだ。
 ・今の若い世代にもっとも欠けているのは「屈辱感に耐える」訓練である。の訓練が行われないで、そのまま社会から大人あつかいにされると、おのれのすること、なすことはすべて正しいと思うようになる。
 ・一人の人間には その運命と人生とを決するような時が、生涯一度は必ずあるものであり、それを乗り切った瞬間、彼の未来は全面的に変わるものだ。
榊原英資
 ・ほとんどの問題に解答はない。正解があるのは、学校のテストだけ。
 ・人は大人になると、"私は色んなことがわかっている"と誤解をします。するとその時点で、「考える」という行為そのものが、スタートしなくなってしまうのです。情報収集も調査活動もしない。だから論理的思考の基礎にも立てない。まあ、きっとこういうことだから…と、中途半端な理解で思考放棄したまま、日常生活を送ってしまう…。「考える力」が鍛えられないのは、そうした"考えない習慣"を、多くの人が作ってしまうからに他なりません。どんな意志決定も、「間違っている可能性がある」ということは、常に意識しなくてはならないのです。ところが問題は、一つの意思決定をして成功すると、いつのまにかそれが「正解」として、私たちの頭に刷り込まれてしまうことです。

<今日のニュース>
◆大塚家具 株主総会 久美子社長が経営権獲得。
 大塚家具の株主総会は創業者で会長の勝久氏を経営陣から外す会社提案が可決された。大塚家具の経営権を巡る争いは、娘・久美子社長に軍配が上がった。株主総会では、勝久会長が久美子社長を批判し、退任させる提案に賛同するよう呼びかけた。対して久美子社長は、企業価値が毀損されると、呼びかけに応じないよう返した。勝久会長の妻であり久美子社長の母、千代子氏は、夫を擁護し娘を痛烈に批判した。だが、議決権である6割の賛成を得て、久美子社長の継続が決定した。久美子社長は、総会後は「ノーサイド」と話した。経営権を獲得した久美子社長は会見で信頼回復にむけて努力すると強調した。

<「巨人戦スコアボード速報」(27日・東京D)>
 巨人が開幕戦を白星で飾った。1回、長野の左中間フェンス直撃の二塁打で天敵・久保から1点を先制。続く2回には亀井が右越えに2ランを運んでリードを3点に広げた。一方、DeNAは5回、筒香が菅野から弾丸ライナーで右翼席に突き刺す1号。9回には代打・関根がプロ1号を放ったが、反撃もそこまで。巨人の新守護神・沢村が逃げ切った。