「皇居東御苑」案内。自信の上には奢りがあり、謙遜の下には卑屈がある(大滝秀治)。

◆「皇居東御苑」案内(皇居案内ガイドhttp://www.hls-j2006.com/koukyo/002/201/
 ①大手門(おおてもん) 
 旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎(*1)によって1年3ヶ月ほどで完成 した。元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式(ますがた)の城門になったといわれている。大手門の警備は、鉄砲30、弓10、長柄20、持筒2、譜代10万石以上の大名が これを勤めた。三百諸侯が威儀を正して登城した門になり、大手下乗門(大手三の門)、 大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至りました。城によっては追手門(おうてもん)といい、防御のために厳重に築造され、大規模な櫓門を開いたり石垣等により枡形をしている事が多く、見た目も大きく、目立つように作られいる。1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていたシャチです。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定される。今の大手門渡櫓は、1968年(昭和43年)に再建された。現在の皇居大手門渡櫓の鯱です。
 *1藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城今治城篠山城・津城・伊賀上野城膳所城などを築城し黒田孝高加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で今治周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。
 ②三の丸尚蔵館
 三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類に加え,故秩父宮妃のご遺贈品,香淳皇后のご遺品,故高松宮妃のご遺贈品,三笠宮家のご寄贈品が加わり,現在約9,800点の美術品類を収蔵されている。
 ③同心番所(どうしんばんしょ)
 「番所」とは、警備の詰所のことで、この同心番所と百人番所、大番所の3つが残ってる。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていた。江戸城の正門であった大手門から入城した大名が最初に通る番所で,与力,同心が詰めて警護にあたっていた。主として登城する大名の供の監視に当たっていた。
 ④百人番所(ひゃくにんばんしょ)
 江戸城の正門だった大手門から,本丸に入るときの最大の検問所で、大手三之門の前に設けられたのがこの百人番所で,甲賀組,根来(ねごろ)組,伊賀組,二十五騎組の4組が昼夜交代で護りを固めていた。各組には,同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれた。
 ⑤大番所(おおばんしょ)
 中之門の内側に設けられ他の番所より格上で,位の高い与力,同心が詰めて警護にあたっていた。前の坂を上がったところが本丸の入り口で、中雀門がありました。
 ⑥中雀門
 中之門を入り大番所前を左に進むと、正面に大形の石材で積まれた石垣を見ながら登る坂道がある。この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると、本丸正門の中雀門がある。この門は、文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっている。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっているが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていた。現在、二本のケヤキが門柱のようにそびえている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたります。
 ⑦窓明館(そうめいかん)
 参観の説明や参観までの休憩に使われる広い講堂みたいなところで、前から順番に座って、説明を待つ。係員の説明が終わりましたら、「窓明館」前に集合し4列くらいになって参観の開始。
 ⑧富士見櫓(ふじみやぐら)
 「窓明館」を出て左側に上がっていくと、右手に立派な石垣と大きな櫓が見えてくる。江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山をご覧になったといわれている。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれている。天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられている。どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美である。石垣は主に伊豆の自然石でこのあたりの石垣の積み方は初期の打ち込みはぎで「野づら積み」というもので、自然石をそのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうですが、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。そしてこの石垣を作ったのは主に加藤清正(*2)公と言われている。石垣の高さは約14.5メートル、櫓の高さは約15.5メートルになります。
 *2加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
 ⑨松の大廊下跡(まつのおおろうかあと)
忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が殿中で吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)への刃傷事件(にんじょうじけん)を起こした場所です。廊下に沿った襖戸(ふすまど)に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていた。江戸城で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。
 ⑩本丸大芝
 開放された芝生地です。明治維新の直後、本丸跡は焼け野原で、第二次大戦後も野菜畑や桑畑の時代もありました。本丸跡は気象台発祥の地でもあり明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。明治4年(1871)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929)に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていた。ここでは、平成2年11月、大嘗祭(だいじょうさい/天皇陛下の御即位後に行われる一世に一度の重要な儀式)が執り行われました。
 ⑪富士見多聞(ふじみたもん)
 「多聞」とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていた。鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていた。
 ⑫石室(いしむろ)
 抜け穴とか、金蔵とか諸説があるが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられる。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の坂が使われています。
 ⑬大奥跡
 江戸城本丸は表、中奥、大奥の三つに大別されます。政務を執る公の場が表といいます。将軍の私的な居住空間を中奥といい、ここでは、小姓など男性だけが将軍に奉仕しました。大奥は将軍の正室(御台所)が住み、多くの女官が住み働く場でした。中奥と大奥は御鈴廊下で結ばれていた。大奥は現在の天守台から南に広がっており、壮大な空間には総勢約3000人もの女性が住んでいた。
 ⑭天守
 江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。 慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれている。元和・寛永天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。 寛永天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。 この寛永天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはなかった。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っている。江戸城天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。
 ⑮北桔橋門(きたはねばしもん)
 天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてありました。また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられていましたが、 有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。現在は、皇居東御苑へは大手門、平川門と同様に、ここからも出入りができます。
 ⑯書陵部庁舎(しょりょうぶちょうしゃ)
 書陵部は,皇室関係の貴重な図書等や陵墓を管理している。
 ⑰桃華楽堂(とうかがくどう)
 桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后(こうじゅんこうごう)さまの還暦記念として建設されました。鉄仙の花弁を形どった屋根と八面体の珍しい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。「桃華」の由来は、香淳皇后さまの御誕生日が三月なので桃の節句にちなんで桃とし、華の字形は十が六個と一で構成されていることから還暦(数え年61歳)を意味するということで命名されました。全体として日本女性の優雅でおおらかな理想像をえがき出したものと言われています。陶片には,有田焼,信楽焼などが用いられており,玄関正面の屋根の上には鬼瓦の代わりとして金色の雛人形が飾られています。
 ⑱楽部庁舎(がくぶちょうしゃ)
 宮内庁式部職の楽部では,雅楽の保存,演奏,演舞,宮殿で演奏される洋楽を担当しています。毎年秋には,楽部による雅楽の一般公開が行われています。通常は一般の人は入れません。
 ⑲汐見坂(しおみざか)
 本丸と二の丸をつなぐ坂道です。昔はこの坂から今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、海が見えたのが名称の由来です。坂を下りると,三代将軍徳川家光の命により小堀遠州(*3)が造ったとされる庭園を復元した二の丸庭園があります。坂の上には、汐見坂門が設けられていた。
 *3小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位遠江守に由来する通称で後年の名乗り。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
 ⑳二の丸庭園(にのまるていえん)
 江戸時代、二の丸には、小堀遠州が造り、三代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当り、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られた。
 ***おおむね2時間から2時間30分のコースである。最近外国人観光客も多いそうである。たまには、江戸城にいにしえの思いをはせるのもよいのではないだろうか。なお、これからの季節水分補給も重要であり、窓明館や最後の二の丸を終え大手門休憩所で一息入れるのもよいのではないか。

<今日の雑感>
 関東地方では、午後からの雨、今朝も雨脚がすごい。先日旧地方が通夜入りしたようだが、中国。関西。東海、そして関東の梅雨入りも早いかもしれない。来週あたりになるのでないかだろうか。
 今日は週末。そろそろ畑作業も雨との戦いが始まりそうである。草もだいぶ生えてきており、これからがまた大変な状況である。

<6月6日生まれの先人の言葉>
本因坊秀策(囲碁
 ・慎始克終 視明無惑
●務臺光雄(日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社読売新聞グループ本社)の元社長)
 ・巨人軍は読売の巨人軍じゃない。大衆の巨人軍だ。
新田次郎(作家)
 ・玉の湯がもったいなくて鶯を聞く。
大滝秀治(俳優)
 ・自信の上には奢りがあり、謙遜の下には卑屈がある。
●山田 太一(作家)
 ・努力をしなさいと小さい頃から言われ続けてきます。夢を持って努力をすれば、それは必ず叶うのだと。でも、人間とはそんな可能性の塊ではありません。どんなに努力をしても、必死になって頑張っても、どうにもならない事がある。物事がうまく いかない人に対して、「うまくいかないのは
君の努力が足りないからだ」と責めてしまう。努力しないからダメだ というその考え方が、不当にたくさんの人を傷つけているように私は思うのです。