今日は七夕。

◆七夕の歴史
 ①平安時代に日本に伝わってきた七夕の行事
 多くの人が楽しんでいる七夕が伝わってきたのは平安時代の頃である。 日本に伝わった当初は宮中行事といて七夕行事が行われていた。当時の宮中行事のなかでとても重要視されていたのは作物を育てる時期や季節の変化を民に伝えるというものがあり、それらは様々な物を用いて行われていた。七夕の頃には宮中の人々は桃や梨、なす、うり、大豆、干し鯛、アワビなどを供えて星をながめ、香をたいて、楽を奏で、詩歌を楽しみでいたようである。
 ②江戸時代の七夕
 一般の人が七夕を楽しむようになったのは江戸時代のころ。この頃に七夕が五節句にとりこまれ一般庶民に広まりお祝いをしていた。七夕が一般に広がった当初、人々の願い事の多くは詩歌や習い事の上達などを願い事にしていたようで、野菜や果物をおそなえして願い事をしていた。梶の葉は神木として大事にされていた事もあり、この頃から今見る事が出来るような五色の紙に願い事を書くようになっていったようある。
 ③現在の七夕
7月7日はおりひめとひこぼしが1年に1度だけ会う事が出来る大切な日、2人が会いたいという願いが叶う日という事も合って、2人のように願い事が叶いますようにと短冊に様々な願い事を書いて笹に吊るすという行事にななった。笹や竹が使われるのは冬でも緑色を失う事なく生命力の強い植物で不思議な力がある植物として扱われてきた。
 ●「国史事典」を見てみると、
 中国の牽牛織女の伝説と乞巧奠の行事に日本の棚機女(たなばたつめ)に関する信仰が習合した。中国の「牽牛・織女」の伝説は、よく知られているが、「乞巧奠」という行事は耳慣れていない。これは「きこうでん」または「きっこうでん」と読む。これは、女性が裁縫が巧みになることを願うお祭りである。「乞巧」とは「巧みになることを乞う」という意味ですし、「奠」とは祭という意味。日本には「棚機女(たなばたつめ)」という信仰がありました。川などの清らかな水辺にある機屋(はたや)にこもって神さまのために着物を織る女性をいう。こうした習俗がある中に、中国の牽牛織女と乞巧奠の習俗が伝来して、習合して、「七夕」という行事になりました。ちなみに「七夕」という漢字ですが、現在は「たなばた」と読まれていますが、江戸時代の五節句の一つの「七夕」は「しちせき」または「しつせき」と呼ばれていた。「たなばた」という読み方は「「棚機女(たなばたつめ)」からきているようである。

<7月7日生まれの先人の言葉>
三宅雪嶺(明治〜昭和の哲学者・評論家)
 ・出来るか出来ないか分からぬ時は、出来ると思って努力せよ。
 ・己の出来ると認むる方が当然であって、出来る事を出来ぬと認めねば出来る事も出来なくなる。
栗林忠道(軍人)
 ・男には『意思』の強固と云う事が何より大切である。意志の弱い男は何が出来ても役に立たない。
円谷英二(映画監督)
 ・特撮っていうのは、貧乏の中から生まれたんだ。