歩いてみよう。谷根千を。(梅雨明けした今日は無理かな?)

◆歩いてみよう。谷根千を。
 コース:JR西日暮里駅⇒?西日暮里公園(日ぐらしの里の説明)⇒?諏方神社⇒?浄光寺⇒?富士見坂⇒?養福寺⇒?夕焼けだんだん⇒?谷中銀座⇒?よみせ通り⇒?岡倉天心記念公園⇒蛍坂⇒?全生庵⇒?大圓寺⇒?へび道⇒?森鴎外記念館⇒?根津神社(裏門→正門)⇒地下鉄メトロ千代田線根津駅
 JR西日暮里駅 昭和46年(1971)、千代田線との乗換駅として開業。西日暮里駅・日暮里駅間は、山手線駅間最短距離500m。

① 西日暮里公園 日暮の里(ひぐらしのさと)
(1)この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として、高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていた。
「景色や草木を眺めあかして 日が暮るるを知らず」元々の新堀村に、当て字をして名付けられたと言われている。
(2)公園からは、JR西日暮里駅のホームや線路を眺めることができる。電車が好きな子どもにとって、たくさんの電車を眺められる絶好のスポット。ほか近隣の電車眺望スポットとしては、諏方神社や日暮里駅北口下御隠殿橋トレインミュージアムがある。

虫聴きの名所
江戸時代は虫聴きの名所で、明治期になって正岡子規もこの地を訪れている。
「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」

道灌山
(1)上野から飛鳥山、赤羽目で続く上野台地に位置する。
(2)名前の由来は複数ある。代表的な説として、以下2説を紹介する。
・江戸の町を拓いた太田道灌(おおたどうかん)の出城跡という説
鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷跡という説

日暮里第一小学校「正直親切」の碑
(1)かつては、日蓮宗修性院純光寺の所有地。
(2)創立100周年記念事業の「正直親切」の碑は、卒業生高村光太郎の直筆より作成。

② 諏方神社
(1)創立は、元享二年(1323)、800年近い歴史を持つ古社。
 豊島勘解由左衛門尉が信濃国諏訪大社から御神体を勧請したのが始まりであると言われている。祭神は、建御名方命(たけみなかたのかみ)である。
(2)文安年間(1444〜1499)、太田道灌神領を寄進した。
 三代将軍徳川家光が五石の朱印を与え、?永十二年(1635)、社殿を現在の協に遷座した。明治期になり、日暮里・谷中の総鎮守として、谷中の総鎮守として崇敬を集めた。昭和20年(1945)3月の東京大空襲で被災したが、昭和27年(1952)に社殿を再建した。
(3)「諏訪」とせず、「諏方」としているのは古来の表記で、かつては神社名には、この方が多かった。現在は全国で一万有余あるうち、三〜四社のみになったとのことである。所有する元禄時代の軸に「諏方大明神」と記されているため、「諏方神社」の社名を続けている。
(4)文化財としては、文化年間に疫病払いに作られた山車が戦災にも焼けず残った。現在、早稲田大学演劇博物館に保存されている。また、社殿の脇に柱状の庚申供養塔があり、元禄十二年(1699)、元禄14年(1701)新堀村の文字が刻まれている。
(5)『江戸名所図会』や歌川広重『名所江戸百景』に描かれている。
(6)神社周辺は、かつて「谷中ショウガ」の産地。谷中本村で採れたので「谷中ショウガ」と呼ばれ、江戸中の評判となった。

・浄光寺(雪見寺)
(1)真言宗豊山派の寺院で、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。
(2)元文二年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際に御成りがあり、同五年(1740)以降、徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」があるが、現在は非公開。
(3)眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」とも呼ばれた。
雪見寺⇒浄光寺
花見寺⇒青雲寺、修性院、妙隆寺(廃寺)
月見寺⇒本行寺
(4)江戸六地蔵(東都六地蔵
高さ一丈(約3m)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として開眼された。文化十年(1813)に再建された(再建理由は不明)。
駒込瑞泰寺、千駄木専念寺(元禄期の地蔵が現存)、新堀浄光寺、下谷心行寺、寛永寺福聚院浅草寺正智院
【参考】江戸六地蔵(座像、こっちの方が有名)
品川品川寺、山谷東漸寺、内藤新宿太宗寺、巣鴨真性寺、深川霊巖寺、深川永代寺
(5)福神漬発明者野田清右衛門 表彰碑
福神漬」を明治10年(1877)頃に発明した。
塩漬けの漬物 → みりん醤油付けの漬物を創製。ユニークな発明を高く評価した当時の食品業界が、明治44年(1911)、「酒悦の野田清右衛門」を表彰し、それを記念して建立された。

③ 富士見坂
日暮里の富士見坂から天気の良い日に、実際に美しい富士山の姿が見られたことから、「関東の富士見百景」に選定された。しかし、平成25年(2013)6月頃に建物によりその姿は見えなくなった。(都内から富士山が見えなくなった訳ではない)花見坂とも伝わる(花見寺が傍にあったから)。江戸東京重ね図(明治期)では、道灌山切通しに「富士見坂」がある。

カフェ シャレー スイス ミニ
平成10年(1998)、スイス出身のパッシュ・デニーさんが開店、マスコミに多数紹介されている。カフェ、レストラン、スイスグッズショップ、語学教室、カルチャー教室など。

・養福寺
(1)補陀落山観音院と号し、真言宗豊山派に属している
 開創の確かな年代は不明。初代住職乗蓮は、寛永三年(1626)に没したと伝えられている。
(2)朱色の仁王門は、宝永年問(1704〜1711)建立と伝えられる。
 本堂や観音堂などほかの建造物は戦災で失われたが、仁王門は焼失を免れて、江戸期の木造建造物として現在に残った。門の表側には仁王像一対があり、一つは口を開いて「阿」、一つは口を閉じて「呼」を示している。仁王像は分身して一対になり、仏法を守護すると言われ、各地の寺々にも多くみられる。また、門の裏側には四天王(持国天増長天広目天多聞天)のうちの二天(広目天多聞天)の像がある。(荒川区文化財より)
(3)「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」がある。
(4)畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」など、さまざまな文人の碑が残る寺として知られている。(荒川区教育委員会

延命院
(1)日蓮宗の寺院で、開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局と伝わる。甲州身延七面山の七面大明神を勧請した。本尊は秘仏とされ、七面宮の額が堂前に掲示している。門前から宗林寺台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。
(3)樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)江戸名所図会「日暮里惣図」に、本樹の全容が描かれている。平成14年(2002)、幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落した。

七面坂
 名前は、坂の上にある七面堂に因む。荒川区台東区の区境の道になっている。


④ 夕焼けだんだん
(1)平成2年(1990)、一般公募で選ばれた名称。(荒川区ホームページより)夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから。(森まゆみ命名説もあり、公募で選ばれたのが「谷根千命名で有名な森まゆみと推定)
(2)階段には野良猫・飼い猫を問わず、沢山の猫が集まっている。「夕やけにゃんにゃん」とも。

谷中銀座商店街
(1)全長175m、終戦直後の物資の少ない時代に始まった商店街。
(2)高度成長期には周辺の人口が増加し賑わうが、その後近在に大型の商業施設が出店し衰退していったが、近年の「街歩き観光」ブームに乗り、商店街の再生を図った。
 来店客数(1日平均)
 平成3年(1991) 平日8000人、休日8000人
 平成26年(2014) 平日7000人、休日14000人
(3)食べ物屋さんや小物屋さんなど、小さいお店が60軒以上ある。東京芸術の学生さんが造った木製彫刻⇒谷中銀座の中に、猫のオブジェが7体ある。武蔵屋豆腐店の前にある招き猫「阿ニャン」(あにゃん)と「吽ニャン」(うにゃん)は人気者。
(4)特に有名なショップ
 ひみつ堂(商店街にはない)(一年中賑わうかき氷店)
 竹工芸 翠屋(だんだん階段下)
 肉のすずき(元気メンチカツ)
 肉のサトー(谷中メンチ、偶然にも2店とも日本人に多い苗字)
 惣菜のいちふじ(揚げ物中心の行列が出来る店)
 後藤の飴(日暮里側入口にある、もうすぐ創業100年になる)
 邪悪なハンコ屋 しにものぐるい
 谷中銀座 招き屋(福にゃん焼き)
 アトリエ ド フロレンティーナ(へび道から移転開店)
 落語と和小物 多満留(古今亭志ん生の長女美津子さんのお店)

⑤ よみせ通り
(1)昔は、駒込染井から上野不忍池まで、藍染川が流れていた。谷戸川、境川、谷田川、藍染川と名前を変えて、不忍池に注ぐ。大正9年(1920)、藍染川の暗渠(あんきょ)エ事が完成し、「よみせ通り」となった。
(2)朝市が立ち、生活必需品が全て揃った便利な活気溢れる買い物通りとなる。特に午後からは、両側500メートルにわたり露店が軒を並べて客を呼び、夕暮れ頃から大道芸人の口上が面白く人垣をつくり、下町風情たっぷりの楽しい商いが競い合う通りとなり、露店(夜店)の並んだこの通りは「夜店通り」と呼ばれるようになる。
(3)戦後は商店街の復興も早く、名物の露店も復活して人の通りも以前に戻った。それと同時に車の通行量も多く激しくなって、相互通行では渋滞を呈し、一方通行に規制された。それでも緩和されず、歩行者の交通安全第一を優先と露店が禁止になった。
(4)道路幅が明暗を分ける。
谷中銀座 道路幅6m
よみせ通り 道路幅8m〜10m
(5)アーケードに描かれたシンボルマーク延命地蔵尊のイラストは、俳優中尾彬さんの作品。

アネックス勝太郎旅館 外国人旅行客を積極的に受け入れている旅館。
Homepageは英語と仏語に対応している。
池ノ端(動物園北側)に「勝太郎旅館」もある。

⑥ 岡倉天心記念公園
 昭和42年(1967)に開園した約700平方mの小さな公園。岡倉天心記念公園は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼日本美術院跡に台東区が作った公園。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。

⑦ 全生庵
(1)明治16年(1883)、山岡鉄舟が幕末・明治維新の際の犠牲者を弔うために創建した。臨済宗国泰寺派の寺院で、「鉄舟寺」とも言う。
僧侶、領主以外のものが寺院を創建するのは珍しい。山岡邸にあったかつて江戸城の守本尊「葵正観世音菩薩」を移して本尊とした。山岡鉄舟の墓は、墓域の中央にあり、一番立派な墓である。
(2)初代三遊亭円朝の墓
 墓石の戒名の字は山岡鉄舟の書によるもの。京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与されていた。円朝は、幕末から明治にかけて落語界の大看板で、怪談話を得意とし「怪談牡丹燈篭」「真景かさねが淵」等多くの囃を書いた。
(3)弘田龍太郎の墓
 作曲家で、「雀の学校」「しかられて」「靴が鳴る」「小諸なる古城のほとり」などの作品がある。
(4)谷中大観音
 彫刻家北村西望(きたむらせいぼう)の原型による聖観世音菩薩像。開眼は平成3年(1991)で、像の下は納骨堂になっている。北村西望は、長崎の「平和祈念像」、「怪傑日蓮」など多数の作品を制作、昭和62年(1987)に102歳で没した。
(5)円朝蒐集の幽霊画コレクション
 円朝没後、その名跡を守っていた藤浦家より寄贈された。伝円山応挙というものから、幕末から明治の著名な画家達の筆による大変ユニークな幽霊画。寺には幽霊画五十幅や明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。毎年8月中旬には「円朝忌」が開かれ、円朝が集めた円山応挙などの「幽霊画」を公開している。

⑧ 大圓寺
(1)日蓮宗の寺院、創建年代は不詳。上野清水門脇の寛永寺年貢地より移転したとされている。
(2)唐破風の二つの本堂が合体したユニークな形の建物。
 左が経王殿で祖師様を祀る仏殿、右が薬王殿で癒守稲荷を祀る社殿。明治の廃仏毀釈で、「笠森稲荷(瘡守稲荷)」を置くことが出来なくなり、「瘡守薬王菩薩」として本尊の隣に安置していたが、昭和2年(1927)、御堂をつなげて建築した。
(3)境内には、笹川臨風の「お仙と春信の顕彰碑」、永井荷風の「笠森阿仙之碑」がある。
 お仙は、笠森稲荷神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。大正8年(1909)、お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、錦絵開祖鈴木春信の150回忌に二つの碑が建てられ た。
「笠森阿仙の碑」は、小説家永井荷風の撰。
「錦絵開祖鈴木晴信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字東京美術学校(現東京芸術大学)校長正木直彦の手による。

笠森お仙
 谷中の笠森稲荷境内の水茶屋の娘(鍵屋の看板娘)。江戸の三大美人の一人。美人の評判が高く、明和期(1764−1772)頃には浮世絵(錦絵)に描かれて人気となった。(出典:広辞苑)お仙見たさに笠森稲荷の参詣客が増えたという。幕府御庭番倉地家に嫁ぎ、九人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。

谷中の笠森稲荷は三つある。大阪府高槻市にある笠森稲荷神社が始とされている。笠森が瘡守(かさもり)と音を通じ、瘡(かさ、かさぶた)平癒の神として信仰された。江戸には小石川御薬園の地と谷中天王寺境内に勧請された。
(1)小石川の笠森稲荷
御薬園の拡張に伴い、享和三年(1803)に大円寺遷座
明治期に入り神仏分離廃仏毀釈)、「笠森稲荷(瘡守稲荷)」を瘡守薬王菩薩として祀った。
(2)谷中感応寺(現天王寺)子院の福泉院
上野戦争で福泉院は、焼失・廃寺になり、笠森稲荷は寛永寺末寺の養寿院に移った。
(3)福泉院の跡地
明治26年(1893)、浄土宗の寺院「功徳林寺」が創建された。境内には、京都伏見稲荷から勧請した笠森稲荷が祀られている。
(出典:天台宗養寿院Homepage)

三崎坂 さんさきざか 別名を「首ふり坂」と言われ、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことに因む。「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説ある。有力説として、駒込・田端・谷中の三つの高台に因むと言われている。この坂がある三崎町は、三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」の舞台になった。

谷中小学校 校舎の意匠が「なんとなく寺院風」。大名時計風の時計台の由来は不明。

菊寿堂いせ辰谷中本店
(1)江戸千代紙の老舗で、千代紙・おもちゃ絵の版元。初代辰五郎は、江戸日本橋堀江町の団扇問屋伊勢屋惣右衛門で奉公。元治元年(1864)、同じ堀江町の団扇河岸に錦絵と団扇制作の問屋を開いた。
(2)二代目辰五郎は、神田弁慶橋に移転し築地居留地や開港の横浜外国商館に千代紙細工や錦絵そのほかを売り込んだ。
(3)関東大震災で千代紙の版木が全て消失したが、その後約一千種の千代紙版木を復活。
(4)昭和17年(1942)、四代目辰五郎は、今度震災が起こっても地盤は大丈夫なように、上野のお山続きの谷中に店を構えた。
(5)現在では、五代目にあたる四人の兄妹がそれぞれの役割を担って暖簾を守っている。
いせ辰には千種類にも及ぶ千代紙やおもちゃ絵がある。江戸の粋なデザインを施した和文具、おもちゃ、縁起の張子なども作っている。

菊見せんべい総本店
(1)明治8年(1875)創業の老舗煎餅屋。菊人形見物客に何かお土産を…と誕生した「菊見せんべい」。近隣在住の高村光太郎、智恵子夫妻はじめ多くの文人墨客が贔屓にした。
(2)四角いせんべいが特徴。
「円は天、方は地」という言葉から、当時からめずらしい四角い形のせんべいとなり、その形は今も変わらない。民衆をあらわす四角い形の煎餅は、町の人に気軽に食べてもらいたいという先代の願いが込められている。
(3)パンも好評(せんべい屋さんでパン)
 第二次大戦の食料統制の際、米が規制されパンを焼いて販売した。タマゴパンなど優しい味の総菜パン、菓子パンなどがある。

指人形笑吉
(1)オリジナルの指人形の製造、販売している。正面、横、斜めの顔写真があれば、そっくりの指人形ができる。
(2)人形劇の上演や似顔絵で楽しめる

⑨ へび道
(1)へび道は、藍染川が流れていた場所で、今は暗渠(地下の水路)になっている。藍染川は上野の不忍池に注いでた川。
(2)魅力的なショップがある。
 旅ベーグルは、平成20年(2008)開店のベーグル専門店。
 Mais D.cuir マイスは革小物雑貨店で、岐阜県美濃市の会社が出店している。
 亀の子束子のアンテナショップは、平成26年(2014)11月開店した。

⑩ 森鴎外記念館 観潮楼跡 http://moriogai-kinenkan.jp/
(1)平成24年(2012)、「文京区立本郷図書館鴎外記念室」が、新たに「文京区立森鴎外記念館」として生まれ変わって開館。明治の文豪森鴎外が誕生して150年目にあたる。
(2)文京区千駄木は、鴎外がその半生を過ごした地で、この記念館が建つ場所は、鴎外の旧居「観潮楼」の跡地である。同じ千駄木の通称「猫の家」から明治25年(1892)にここに移り住み、亡くなる大正11年(1922)まで当地で過ごした。2階書斎を増築し、東京湾の海が遥かに見えたので「観潮楼」と命名した。当時の建物は戦災で焼失したが、藪下道に面した表門の礎石や敷石は当時のままである。
(3)文学活動の中心舞台で、『青年』 『雁』 『阿部一族』 『高瀬舟』などの小説、『即興詩人』などの翻訳小説、『渋江抽斎』などの歴伝・評論などを書いた。小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医と、いくつもの顔をもつ鴎外は、その業績から傑出した才能は明らかであるが、文化人たちとの交流からも人間鴎外の大きさを知ることができる。
(4)三人冗語(じょうご)の石
『めざまし草』の匿名文芸批評の執筆者3人、鷗外・幸田露伴・斉薄緑雨の記念写真に写っている。
(5)観測楼歌会が明治40年(1907)から開かれ、若い詩人や歌人に大きな影響を与えた。
(6)表門跡から「スキマツリー」が見える。

藪下道(藪下通り)
(1)根津から団子坂上駒込への間道として、台地の縁辺を自然に踏みかためて出来た道である。西側の台地上一帯は、大田道潅の子孫といわれる掛川藩太田家の下屋敷があった。篠竹の大きいのがあって、雪など降ると藪下の細道は、篠竹が通せんぼする程であったという。
(2)森鷗外は、小説 『細木香以(さいきこうい)』に、「団子坂上から南して、根津権現の裏門に出る岨道(そばみち)に似た小径がある。これを藪下道という]と書いている。この道は鷗外の観測楼の表門前を通り、鷗外の散歩道でもあった。

藪蕎麦
藪蕎麦の元祖は複数説があるが、この地はその一つ。(深川説、雑司が谷説、団子坂説など)団子坂の蔦屋は、伊勢藤堂家の元家臣で、団子坂権現山に蕎麦屋を開業、当初は権現山に因み「山そば」と呼ばれ、その後「藪蕎麦」に変わったという。
団子坂の本店は明治後期までに廃業したが、神田淡路町の支店は、明治13年(1880)、堀田七兵衛が譲り受け、本家として今日に至っている。
現在、「かんだやぶそば」 「並木藪蕎麦」 「池之端藪蕎麦」が「藪蕎麦御三家」とされている。

夏目漱石旧居跡 猫の家
(1)文豪漱石がイギリス留学から帰朝後の明治35年(1902)から39年(1906)までの3年間住んだ場所。この家は、漱石の学友斉藤阿具の持ち家で、阿具のヨーロッパ留学中という条件であった。約束により39年末、駒込西片町へ移った。
この間、東京帝国大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、処女作 『我輩は猫である』 を執筆し、この旧居は作品の舞台となった。『倫敦塔』 『坊ちゃん』 『草枕』 等を次々に発表したところでもある。
(2)また、森鷗外漱石が入居した13年前、明治23年(1890)から1年間住み、『文づかひ』 を書いた。そしてここから、団芋版の観測楼へ移って行った。
(3)家屋は愛知県犬山市にある「博物館明治村」に移築された。昭和40年(1965)、「明治村」の開園と同時に公開されている。

⑪ 根津神社
(1)今から千九百年余の昔、日本武尊千駄木の地に創祀したと伝えられる古社。文明年間(1469〜1486)には太田道灌が社殿を奉建している。祭神は、須佐之男命・大山咋命(おおやまくいのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)で、相殿は大国主命菅原道真公。
(2)この地は、五代将軍綱吉の兄である甲府中納言綱重の屋敷で、六代将軍綱豊(家宣)が生まれた地であり、このため根津神社はその産土神となった。宝永三年(1706)、綱吉は現在地に権現造の社殿を造営し、千駄木の旧地より遷座した。
(3)明治維新後、根津権現から根津神社に改称したが、文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。
(4)昭和20年(1945)の東京大空襲により本殿・幣殿・拝殿の大部分が焼失しましたが、11年かけて「復原」され、昭和31年(1956)、国の重要文化財に指定されています。現在、権現造りの本殿・幣殿・拝殿、唐門、西門、透塀、楼門が重要文化財に指定されている。
楼門の右側随身は、水戸光圀がモデルと言われている。
【参考】建造物の復原と復元
 復原⇒始めの姿が改造されたり、変化してしまった現状を元の姿に戻すこと
東京駅丸の内駅舎など
 復元⇒失われて消えてしまったものを、かつての姿どおりに新たに作ること
三菱1号館(美術館)、京都鹿苑寺金閣など
(5)天下祭
 正徳四年(1714)の祭礼は天下祭または宝永祭とも呼ばれている。江戸全町より山車を繰出し、江戸城吹上に於いて将軍の上覧があった。
通常、山王祭山王権現)と神田祭神田明神)を天下祭と呼んでいる。また、六台将軍家宣奉納の大神輿3基が保存されている。
(6)つつじまつり
 境内にあるつつじ苑は、徳川綱重(綱吉の兄)の屋敷につつじを植えたことに始まり、府内の名称であった。現在、毎年4月中旬から5月上旬にかけて「文京つつじまつり」が開催され、約100種3000株が咲き乱れる。
(7)胞衣塚(えなづか)には、当時の慣習により六台将軍家宣の胎盤が埋められている。
(8)文豪憩いの石に、夏目漱石森鴎外らが腰かけて構想を練ったといわれている。
(9)乙女稲荷神社の社殿両側には奉納された鳥居が立ち並ぶ。
また、社殿前舞台からは神社本殿・幣殿・拝殿の権現造り構造が確認できる。

<7月19日生まれの先人の言葉>
野依秀市(ジャーナリスト)
 ・大体、てめえー達は、俺を呼びつけて裁判みたような真似をしやがるが、いったい何んの権利があってやるんだ。俺は裸一貫数十年やってきた男だ。戦犯だなんだというが、戦争中、アメリカと戦え、というのは当り前じゃねえか、てめえー達の“決定”なんかに、ご尤もでございますと、この俺が服せると思うか。
水野晴郎(映画評論家)
 ・いやぁー、映画って本当に素晴らしいものですね。
孫崎享(外交官)
 ・相手に期待どおりに動いてもらうには、まずこちらから相手の期待を叶える必要がある。外交でも普段の入づき合いでも、その要諦は変わりません。
 ・「自分のブランドを確立する」というと大げさに聞こえるかもしれませんが、「あいつはどんな仕事にも手を抜かない」という評判を自分で作り出すことは、仕事をするうえでとても大切なことだと思います。

関東甲信越地方通夜明けです。