原発事故、司法の場へ。

◆東電元会長ら強制起訴へ…原発事故で検審が議決
東京電力福島第一原発事故を巡り、業務上過失致死傷容疑で告発された東電の勝俣恒久・元会長(75)ら当時の幹部3人について、2度目の審査を行っていた東京第5検察審査会は31日、3人を起訴すべきだとする「起訴議決」をした。議決は17日付。3人は今後、東京地裁が選ぶ検察官役の指定弁護士によって強制起訴される。未曽有の災害となった東日本大震災に伴う原発事故で、東電の旧経営トップが公開の法廷で刑事責任を問われる事態となった。2009年5月の改正検察審査会法施行後、「起訴議決」は9件目。他に起訴議決の対象となったのは、武藤栄(65)、武黒一郎(69)の東電元副社長2人。
事故を巡っては、福島県民らが参加する原発告訴団などが12年8月、当時の政府関係者や東電幹部ら計42人を告訴・告発。東京地検は13年9月、全員を不起訴としたが、同審査会は14年7月、勝俣元会長ら3人について「起訴相当」と議決した。再捜査した地検は今年1月、3人を2度目の不起訴としていた。

<今日のニュース>
◆北京歓喜「史上初の夏冬開催」 2022年 五輪。
 2022年の冬の五輪が北京に決定した。31日IOC総会で行われた投票で、4票差でアルマトイに北京が勝利。夏・冬両方の五輪開催は史上初。

<8月1日生まれの先人の言葉>
根津嘉一郎(初代)(東武グループ創業者・政治家)
 ・会社再生の秘訣は、どこに不正と不合理があるか、その病原を退治することが一番近道である。
 ・全然怒らなくて、世のなかが無事にすごせるというわけにもいかない。怒るときはおおいに怒ってもいい。
 *根津美術館 http://www.nezu-muse.or.jp/jp/about/index.html
室生犀星(詩人・小説家)
 ・ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 帰るところにあるまじや。
 ・永く生きて来て気のつくことは此の生き抜く意外に何もないことなのだ。
 * 室生犀星記念館(金沢)  http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/ 
   兼六園がある市街中心部から少し南、犀川にかかる犀川大橋の近くに「室生犀星記念館」がある。記念館は二階建てでガラス張りのきれいな  建物で、2002年に開館したものでまだ比較的新しい。展示スペースは広くはなく、一階では年譜の展示の他、関係者が犀星を語るビデオや犀星  の遺品、他の作家達との交友について展示されている。二階では、"創作の世界"として犀星の文学活動,「詩」「俳句」「小説」「随筆」などの直筆原  稿、初版本、書簡などの資料が展示されている。後はパソコンで犀星の詩や俳句と写真を組み合わせたオリジナルポストカードを作るコーナーなどもあった。  犀星の一生を考えるとき,出生の問題を避けては通れないだろう。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子  に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。
   「現代の日本語によって美の極限の一つを創造したと思はれる」(川端康成)犀星の文学は、多彩で、多作で、その活動範囲は俳句、詩、短  歌、小説、随筆、評伝など実に多様である。著書は生涯で150冊に及んでいる。故郷の犀川の東側のほとりに犀東という漢詩人がいたので、自  分は川の西に生まれたので犀西、それを変化させて犀星とした。犀星は生涯で1750の俳句と4冊の句集、20冊の詩集を出している。
   ふるさとは遠きにありて思うもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
   帰るところにあるまじや
   ひとり都のゆふぐれに
   ふるさとおもひ涙ぐむ
   そのこころもて
   遠きみやこにかえらばや
   遠きみやこにかえらばや
   誰でも一度は耳にしているこの「小景異情 そのニ」の詩は、室生犀星の作品だった。この記念館では、犀星自身肉声でこの詩を聴くことが  できるコーナーがある。とつとつとした誠実な人柄を思わせる声である。
  <室生犀星の略歴>
  ・1889年 小畠弥左衛門吉種(加賀藩足軽頭64歳)とハル(小畠家奉公32歳)という女性の子として生まれる。生後すぐ雨宝院住職・室生真乗と内縁      関係にあった赤井ハツにもらわれ照道と命名される。(ハツの私生児として戸籍登録)
  ・1896年 室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗る。
  ・1902年 長町高等小学校を中退し、金沢地方裁判所に就職。
  ・1906年 「政教新聞」掲載の詩で、初めて「犀星」の名を使う。
  ・1907年 北辰詩社を尾山篤二郎らと結成。
  ・1910年 上京。金沢地方裁判所の上司であった赤倉勇次郎を頼って寄宿する。
  ・1913年 「朱欒」に詩が連続掲載され,同誌を見た萩原朔太郎より手紙もらう。
  ・1918年 「愛の詩集」を自費出版。 浅川とみ子と結婚。 「抒情小曲集」を出版。
  ・1919年 中央公論に初めての小説「幼年時代」が掲載。 続いて「性に目覚める頃」 「或る少女の死まで」も中央公論に掲載。
  ・1921年 長男・豹太郎が出生し、溺愛するが翌年死去。深い悲しみに閉ざされる。
  ・1923年 長女・朝子出生。9月関東大震災に遭い,10月家族とともに帰郷する。
  ・1927年 7月親交を結んでいた芥川龍之介が自殺。大きな衝撃を受ける。
  ・1935年 前年に連載した「あにいもうと」で第一回文芸懇話会賞受賞。翌年映画化。
  ・1956年 「杏つ子」を東京新聞に連載開始。翌年,第9回読売文学賞を受賞。映画化。 
  ・1959年 妻とみ子死去。「我が愛する詩人の伝記」で第13回毎日出版文化賞,「かげろ ふの日記遺文」で第12回野間文芸賞受賞。
  ・1961年 肺がんで入院するも,執筆を続ける。
  ・1962年 3月26日 死去。73歳。翌年,金沢市野田山墓地に埋葬される。
   室生犀星記念館(軽井沢) http://www.i-turn.jp/karuizawa-murou-seisai-kinenkan.html
金田正一(野球)
 ・(小児病院を弔問した折に)満足に歩けもしない、あんな小さな子供でさえ、走ろう、生きようと必死なんだ。それに比べたら五体満足の大男たちが、やれホームラン打ったの、やれ負けたのと騒ぐ。小いせえ、小いせえ、野球なんて小さすぎらあ。
田村正和(俳優)
 ・頑張っているという言葉は自分で使うもんじゃない。他人が自分のことを評価して言うものなんだ。
若田光一(宇宙飛行士)
 ・NASDA(宇宙開発事業団)の宇宙飛行士候補試験を受けたのは、試験に落ちてしまったとしても、自分の知らない世界に目を向けたり、挑戦してみるという経験が自分のこれからの人生に必ずプラスになると思ったからです。