「丸の内」地区の歴史

◆「丸の内」地区の歴史
 徳川家康が1590年に江戸城を居城とする前は、東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていた。1592年からこの入り江が埋め立てられて江戸城が拡張された。新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となり、丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いで、御曲輪内(おくるわうち)といい、これに由来している。親藩譜代大名の屋敷である藩邸が24あったため「大名小路(*)」とも呼ばれた。南北町奉行勘定奉行奉行所評定所も置かれた。
 *大名小路江戸城の外郭にはおもに外様大名らの屋敷があり、その真ん中をJR有楽町駅前から東京駅前のJPタワーと三菱ビルの間を通っ   て、永代通りに交わる直線道路を江戸時代より大名小路という。
 明治維新後に武家屋敷は取り壊されて官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などになった。陸軍兵営が移転した後、明治21(1888)年、東京都市区改正条例が公布され、明治23(1890)年、三菱の2代目当主・岩崎弥之助に10万7千坪が128万(東京市予算の3倍)で払い下げられた。当時の丸の内は、官公庁舎・兵舎などが撤去され、草の生い茂る原野と化しており、三菱ヶ原と呼ばれた。三菱は欧米に並ぶ大ビジネス街の建設に着手、明治27(1894)年に丸の内最初のオフィスビルである赤煉瓦建築「三菱一号館」が竣工、これを皮切りに馬場先通りを挟んでロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が建設され、一丁倫敦(いっちょうろんどん・一丁=約109m)といわれるようになった。三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至るも三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中する。三菱一号館の竣工と同じ1894年、高知藩屋敷跡地に東京府庁舎(のちの東京都庁舎)が完成した。大正3(1914)年に三河吉田藩信濃松本藩の屋敷跡地が中央停車場(東京駅)となり、これを機に、行幸通り沿いに東京海上ビル、丸ビル(1923年・昭和戦前期は、最大のビル。「東洋一のビル」 と称され、当時は、8階建て)、郵船ビルなどが建築され、ビジネス街(丸の内ビジネスセンターの中心は北に移動)として急速に発展した。
 1959年からの三菱地所による「丸ノ内総合改造計画」により煉瓦街は急速に建て替えられ、1970年代前半には建物の高さ(100尺・約31m)の揃った近代的なビルが整然と立ち並ぶ街に生まれ変わった。1964(昭和39)年施行の建築基準法により、高さ制限の部分的撤廃と容積率制が導入され、1966(昭和41)に発表された東京海上ビル建替計画(設計:前川國男)はいわゆる「丸の内美観論争」に発展。建設の際には、皇居のすぐ近くに超高層ビルを建てることから美観論争・高さ制限論争を起こした。それまで丸の内周辺では、戦前の美観地区規制および、建築基準法の昭和39(1964)年以前の規制により100尺(約31m)の高さ制限ぎりぎりのビルが整然と立ち並ぶ景観が造られていたが、東京海上火災保険が1966(昭和41)年10月5日に東京都へ提出した前川國男の当初案の建築確認申請書では30階建て・高さ127.768メートルとなる高層ビルのツインタワーが建つことになっていた。東京都がこの建築申請を1967年(昭和42年)4月15日付で却下したことをきっかけに、皇居の周囲の美観地区指定を巡る論争や、皇居の周りに皇居を見下ろすようなビルを建てることの是非をめぐり対立が起こった。経済成長に伴い、大型ビルへの建替えが進み、昭和40年代には赤煉瓦の三菱一号館など歴史的建物は、姿を消し、町は大きく変貌した。
 平成14(2002)9月6日、地上180m、37階建てビルとなって、全面を改装しオープンした丸ビルは、する。下層には先代丸ビルの面影を残した超高層ビルになった。名称も「丸ノ内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に改称した。ちなみに、グランドオープン時のキャッチフレーズは「日曜日なのに、東京駅に降りていた。」であった。新しい丸の内の象徴するランドマークに生まれ変わり、多様性ある街、食、文化、ファッション街へと生まれ変わってきている。解体時に、地中から5443本もの松杭が発見され、それらはビルを支え続けた土台柱であり、地下20メーターまで打ち込まれた杭だが奇跡的にも腐食一つしておらず、その記念碑として「Mの記憶」(土屋公雄:長さ16メーターの松杭二本にアートという新たな役割を与え、その一本はブロンズ製の松杭として、旧丸ビルの面影を復刻した正面エントランス部分に、新丸ビル竣工から未来にかけての年号、2002年から2100年を刻み垂直に立てた。もう一本はオリジナルのまま特殊樹脂でコーティングし、ブロンズ製松杭の足元から直線的に床に埋め込まれたガラスケースに影のよう収められている。そしてこのオリジナル杭には、旧丸ビルの竣工から解体まで、過去の年号である1923年から2000年を刻んだ。)が展示されている。さらに、丸の内仲通り(全長1.2キロメートル)は、晴海通りから永代通りまでを結び、日比谷通りに並行しているが、晴海通りから行幸通りまでは北方向への一方通行となり、さらに現在では行幸通りの中が廃道となり通り抜けられなくなっているが、通りの両側に街路樹が施され、冬にはイルミネーションされ、また、さる今年7月31日から通年で、車両の通行を規制した「歩行者天国」になるなど訪れて楽しい街へと変わってきている。
 2000年代に入って丸の内の再開発が急速に進み、2002年8月に竣工した丸ビルは開業から4か月足らずで入場者数が200万人を突破するなど、一躍観光スポットとなった。その後も2004年9月14日に日本国有鉄道国鉄)本社跡地、JTB本社跡地、東京中央ビルヂングの跡地に丸の内オアゾが、その3日後の9月17日に重要文化財明治生命館を保存しつつ周囲を再開発した明治安田生命ビル(丸の内MY PLAZA)が、さらに2007年4月27日には新丸の内ビルディングがオープンした。2009年4月30日、丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が解体から41年を経て三菱一号館美術館の建物としてレプリカ再建された。2007年の新丸ビル、歴史的建造物の保存再生、景観の保存が図れ、日本工業倶楽部会館東京銀行協会ビル明治生命館などが保存あるいは外観の一部を再現し超高層ビルに建て替えられた。2012(平成24)年に東京駅の復元、2013(平成25)年3月には旧東京中央郵便局が建物一部保存で高層(JPタワー)の商業施設KITTEを開業した。また、2017年春の完成をめざし、地下街を整備した丸の内口の空間を有する駅前広場を再整備中である。

<8月3日生まれの先人の言葉>
黒鉄ヒロシ(漫画家)
 ・今の世の中は、すべてのものを何かに見なしているに過ぎない。お金がそうです。単に紙に「壱万円」と印刷されたものです。それを価値があるとみんなで見なしているだけ。
斎藤一人(実業家)
 ・仕事って飽きないの。仕事をひたすら一生懸命やってると面白くなってくるの。仕事が面白くない人がいたとしたら、一生懸命やってないの。
田中耕一(化学者・ノーベル化学賞受賞者)
 ・失敗からは必ず新たな発見がある。最近は、失敗するのが楽しみになってきました。
 ・『常識』の反対は、『独創的』である。
 ・自分だけの夢を見つけてください。そしてその夢を大切に温めれば、いつか何かを達成できます。