伝奏屋敷跡(日本工業倶楽部会館)

◆伝奏屋敷跡(日本工業倶楽部会館
 東京駅の丸の内北口を出て皇居に向かうと、右手に重厚な建物が見えてきます。これは、日本工業倶楽部会館です。隣接する三菱UFJ信託銀行の本店と一体の建物になっています。ここに江戸時代は伝奏屋敷がありました。
 伝奏屋敷は、武家伝奏または勅使の宿舎として江戸に設けられた屋敷です。江戸の頃、ここには、朝廷の勅使、院使などが江戸下向に際しその宿舎とした伝奏屋敷がありました。勅使の滞在中、伝泰御馳走役を命じられた大名は、ここで高家の指南を受けながら勅使の世話をした。武家伝奏は、朝廷に置かれた役職で幕府との交渉がその仕事でした。その武家伝奏たちが宿泊することから伝奏屋敷と名付けられました。勅使は、毎年、三月上句、年頭のあいさつに下向してきますが、その際に宿泊したのがこの伝奏屋敷です。勅使の滞在中は、勅饗応役を命じられた大名が、一切の世話をしました。元禄14年の勅使下向の時に勅使饗応役を務めたのが有名な「忠臣蔵」の浅野内匠頭長矩です。この時、赤穂藩藩士も当然、ここに詰めていました。松之廊下の刃傷事件がおき勅使饗応役が新たに佐倉藩主戸田忠真に替ったため、赤穂藩は、道具類を運び出さなくてはなりませんでしたが、見事に伝奏屋敷から運び出しました。その手際のよさに幕府の目付は感心したといわれています。この指揮をとったのが、赤穂浪士の一人原惣右衛門でした。原惣右衛門は、伝奏屋敷の脇を流れる道三堀を使用し、鉄砲洲の上屋敷まで、道具類を短時間で運んだと言われています。伝奏屋敷は広さは坪数2,530坪あったといいます。
 重厚な建物が日本工業倶楽部会館です。元は、大正9年(1920)に竣工したものですが、平成15年に建替えられて、会館の南側部分が保存・再現されています。日本工業倶楽部は、大正6年に設立されました。初代理事長は三井合名会社理事長の団琢磨でした。戦後は、経団連、日経連をはじめとした経済団体の設立と育成に協力し、かなりの間、経団連、日経連、経済同友会もここに事務局を置いていました。現在は、実業家の親睦を目的とした社交クラブとなっています。日本工業倶楽部会館は、設計は横河民輔、松井貴太郎等が行いました。正面屋上には小倉右一郎作の二つの人物像が置かれ、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にし、当時の二大工業石炭と紡績を示しています。一般社団法人日本工業倶楽部は、当時の有力実業家により「工業家が力を合わせて、わが国の工業を発展させる」ことを目的として1917年(大正6年)に創立された法人。初代会長は三菱合資会社頭取の豊川良平で、初代理事長は三井合名会社理事長の団琢磨。重要経済問題、労働問題などに関して調査活動および政府への建議を行い、経済団体としての機能を果たしてきた。第二次世界大戦後は戦後経済の復興発展の礎のような役割を担い、経済団体連合会経団連)、日本経営者団体連盟(日経連)をはじめとした経済団体の設立と育成に協力し、それらの団体と重複する事業は行わないこととなった。元経済産業省所管 の社団法人で、現在は財界人の交流の場として公益法人としての役割を果たしている。1999年8月23日、登録有形文化財として登録されたが、老朽化のため、2003年3月に会館の南側部分を保存・再現したうえで建て替え、三菱信託銀行本店ビルとして竣工した。

<今日のニュース>
◆都心6日連続 猛暑日 エアコンと都市の悪循環。
 東京銀座など都心では35.2度を記録した。明治8年東京気象台が設置されて以来、141年の歴史ではじめて6日連続で猛暑日を観測した。6月以降、熱中症で亡くなった人は東京23区で51人にものぼった。IT企業インフォテリアでは猛暑日は在宅勤務を可能としている。現在、台風13号の影響で太平洋高気圧とチベット高気圧により、暖かい空気が塞がれて逃げられてない状態になっている。北海道札幌市などでは、偏西風の影響で、沖縄よりも暑い気温となった。
 例年、北海道などでは酷暑とまではならないエアコンを設置する家は多くはない、しかし今年はいつもの夏よりも購入した人が多いのか設置業者は大忙しとなった。設備テック西尾光宏社長は「3割ぐらいは多いと思います」と話した。東京大学名誉教授養老孟司はエアコンについて「外へ出た熱い空気を冷房で冷やしている。都会は暑くなって当たり前」とコメントした。明星大学掛川幸浩教授は「エアコンは熱を移動させているだけ。その結果生じた排熱がさらにヒートアイランドを強化する」と解説した。
古舘伊知郎は、密閉性の高い住宅を求めたという都市化の果てにさらに中が熱くなるために冷やさなくなければならないという悪循環がある、とコメントした。
中森明菜、新曲は“再生不能”。 
先月13日に50歳の誕生日を迎えた歌手・中森明菜が、9月30日に新曲「unfixable」を発売することが4日、わかった。シングル作品としては初めて全編英語での歌唱となり、制作担当者は「明菜のこだわりで選曲した渾身の作品」と話している。ストレスによる免疫力低下で体調を崩し、入退院を繰り返してきた中森だが、昨年の『第65回NHK紅白歌合戦』で4年3ヶ月ぶりに公の場に姿を見せ「Rojo -Tierra-(ロホ ティエラ)」(1月21日発売)を披露。しかし、その後、本格的な活動再開には至らず一部で「体調を崩したのではないか」と心配されていたが、実際には海外で極秘レコーディングを行っていた。
 制作担当者によると、新曲用に作品を集めレコーディングを開始したのは初春からで、中森は企画段階から参加。その中から50歳最初の新曲として選んだのが、海外の作家に依頼した作品で“4人の作家による共同制作”となる「unfixable」だった。タイトル「unfixable」は日本語に訳すと「再生不能」。ミディアムテンポのバラード作品に仕上がっているというが、J-POPに詳しい音楽関係者は「バラードは歌姫・明菜の真骨頂と言えますが、ポップス系歌手の曲タイトルとしては異例でしょう。しかも、明菜の新曲だけにインパクトという以上に衝撃的」と一様に驚いているという。
 選曲について「レコーディングした数曲の中から絞り込んでいく中で、明菜が最後までこだわったんです。表題曲は英語詞ですが、カップリング曲として収録する予定の『雨月』は日本語詞で、その詞の内容は彼女の活動休止中の気持ちを表しているというんです。自分ではどうにもならない、いらだち、焦り…でも、それを乗り越えようと頑張ってきたら、一筋の光が見えてきた…明菜はこの曲を改めて聴いていると涙が出て来る」。
 音楽活動を休止していた約4年間。苦悩と病気との闘いの日々、そして『紅白』への出場を決めた心情が、50歳の節目かつ通算50枚目のシングル作品の中で初めて明かされるのかもしれない。

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◆海軍の歴史を通し、日本の近代や人間を見つめた風格ある小説で知られた作家で文化勲章受章者の阿川弘之さんが、死去した。


<8月5日生まれの先人の言葉>
●茂木啓三郎(二代目・キッコーマン醤油元社長)
 ・軽い細やかなものでも積み重ねれば舟を沈める。
古賀誠(政治家)
 ・平和憲法は「世界遺産」だ。