神楽坂を歩く。

 神楽坂を歩くコースは、「飯田橋西口―牛込御門―区境プレートー牛込揚場―古地図―神楽坂―芸者新道―かくれんぼ横丁―うを徳―兵庫横丁―寺内公園―相馬屋―見番―熱海湯階段―泉鏡花旧居跡―近代科学資料館―若宮八幡―遠州流茶道宗家―松が枝―毘沙門天」である。
 ●飯田町
 天正18年(1590)江戸に入府した徳川家康は、千代田村とその周辺を視察します。その時案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛でした。「土地の事を細かく申し上げた」喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主に任命し、地名も「飯田町」にするよう命じた。その後、江戸の町の開発が進み、この界隈に武家屋敷がひしめく様になっても、飯田町は残った。但し江戸時代は武家屋敷には町名が無かった為、飯田町は通称で使われた。
飯田橋は飯田町北側にある江戸城外濠に架けた橋から命名された。
 ●牛込見附門
 この門は寛永13年(1636)阿波徳島藩主、蜂須賀忠英が命を受け、外濠と共に建造した。使われた石には「阿波守内」の文字が刻み込まれている。江戸城には36見附門があると言われているが、それ以上の門があったという。その主要な門は四角い枡形門であった。 敵が高麗門を突破してきても、渡櫓門から鎗・鉄砲等で攻撃する。「牛込見附」 は 「牛込口」 とも呼ばれ、江戸時代には、江戸と上州道方面を結ぶ重要な交通の要でもあった。牛込御門は「楓の門」、市谷御門は「さくらの御門」と言われ、春・秋楽しめた。門跡は明治35年(1902)に石垣の大部分が撤去される。現在の牛込橋は平成8年(1996)建造の鋼鉄製の橋。
 ●飯田橋駅
 昭和3年開業 明治27年(1894)甲武鉄道 新宿〜牛込停車場開通。治22年(1889)立川〜新宿開通。
 ●神楽坂通り
 寛永5年(1628)酒井若狭守忠勝(小浜藩主)が、矢来町に屋敷地を拝領、下屋敷を建てた。その後牛込御門が完成、その間約1キロを酒井の殿様の登城道として整備。
 名前の由来は
 ①高田八幡(穴八幡)の御旅所に祭礼で神輿が到着すると、神楽を演奏した
 ②津久戸明神が江戸城の田安の地から移転してきた時この坂で神楽を演奏した
 ③若宮八幡の神楽が聞こえていた
 ④市ヶ谷八幡の祭礼の時、神輿が牛込見附橋の上で神楽を演奏した
など、すべて神楽にかかわる話ですが「江戸名勝誌」には「坂の由来にはいろいろな説があるがはっきりしない」と記されている。昭和54年逆転一方通行。三代将軍家光は、酒井若狭守をこよなく愛し、訪問回数は100回を超えた。それに応えるべく、下屋敷内には、家光好みの庭園(小堀遠州作)を造り、江戸の名庭園と言われた。その景観を保つために、屋敷を全て囲むような塀を設けず、一部を竹矢来で囲んでいた為、警護に苦労した。
その為、昼夜抜き身の鎗をもたせた腕利きの御家人に警護させた。
 ●区境プレート・ホール
 全国的にも珍しい「行政区分をまたぐ」同ホールを運営・管理するセントラルプラザもまた区をまたいでいる。住宅棟(千代田区飯田橋4)事務所棟(新宿区神楽河岸1)で2つの住所を表記し、夫々の区へ固定資産税を納めているという。この多目的ホールでは、定期的に音楽ライブ等を開催しており、買い物客らが「どちらかの区で」ライブを楽しんでいる。
 ●神楽河岸(揚場)
 江戸時代、船が海からここまで上がって来ていた。全国各地から運ばれてきた米・味噌・醤油・酒・材木等が荷揚げされたので、この辺りを揚場と呼んだ。昭和47年ビル建設(飯田橋セントラルプラザ)が決定し、飯田濠は埋め立てられる事になったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望で、ビルの西側に飯田濠の一部を復元すると共に、以前水面があった事に因んで約230mのせせらぎを造った。外濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って、昔の通り神田川に注いでいる。軽子坂は縄で編んだ籠を「軽籠」、軽籠を運ぶ人を「軽子」といった。その軽子が行き来したことから付けられた。この坂を上った辺りに、晩年の大久保彦左衛門の屋敷があった。徳川直参旗本であった彦左衛門は、家康が将軍職を退いた後、共に駿府へ下がるが、家康亡き後江戸に舞い戻り、これまでの功績が評価され、ここに屋敷地を賜った。
 ●芸者新道
 神楽坂の花柳界が盛んだった頃、この通りの両側は料亭だった。ロク・ハチといった時間帯で、お座敷がかかった芸者さんが時を争ってこの通りを駆け抜けていった(料亭の宴席が始まる時間で、1回目が6時・2回目が8時・最盛期は10時もあった)
 ●かくれんぼ横丁
 神楽坂らしいピンコロ石の石畳と黒板塀の通り。「お忍びで遊びに来た人を後ろからつけてきても、横に入られるとわからなくなる」ところから名付けられたと言われる横丁。
 ●う越徳 (うを徳)
 老舗の料亭 明治の文人尾崎紅葉泉鏡花達などが好んで宴会を開いた。泉鏡花は宴席で「桃太郎」(伊藤すゞ)という芸者と恋仲になり同棲をする。そのことが師匠の紅葉に知られ、修行中の身という事で、別れさせられる。しかしまもなく紅葉が亡くなり、彼女を入籍している。この悲恋を小説にしたのが「婦系図」。この中に「うを徳」は魚屋(めの惣)として登場している。神楽坂に残る4軒の料亭の1件です(千月・牧・幸本)
 ●本多横丁
 神楽坂で最も大きな横丁。名称は旗本の本多対馬守の屋敷があった事に由来。飲食店を中心に50件以上の店舗が立ち並ぶ。ビルの間に古い木造の店舗や旧料亭の建物が残っている。かくれんぼ横丁・芸者新道にもつながっている。
 ●三年坂
 この坂で転ぶと、3年以内に死ぬという。それが嫌なら、転んだときに土を3回なめれば死なない。
 ●兵庫横丁
 軽子坂から上ってきたこの道は、神楽坂界隈で最も旧い道で、鎌倉古道と言われ、鎌倉時代、武蔵の国の「府中」から中野・落合この道を通り大手町に抜け下総の国「国府台」までの要衡だった様です。この兵庫横丁は、牛込城の登城口で、戦国時代に武器庫(兵庫)があった事に由来し、敵の襲撃を考え、多勢の兵や馬・大きな武器を通りづらくする為、道幅は三尺(約1m)しかありません。石畳の路地に老舗の料亭。新宿区まちなみ景観賞も受賞
 ●和可菜
 「本書き旅館」経営者は故小暮美千代さんの妹、和田敏子さん。山田洋次「寅さんシリーズ」・野坂昭如内館牧子伊集院静香・藤沢周平たそがれ清兵衛東京オリンピックの頃、円谷プロ金城哲夫ウルトラマン」等が執筆活動の為、投宿する旅館。 映画・テレビ・中心に「本書き旅館」として愛され、ヒット作品が数多く出た事から「出世旅館」とも呼ばれている。
 ●寺内公園(行元寺跡)
 神楽坂花柳界発祥の地 家康が江戸入城時、この地方は牛込七ヶ村と7つの村に分かれていた。行元寺門前のみが町屋の形態であった。後にこの地には赤城神社と共に岡場所が出来、神楽坂の花柳界へと発展していった。行元寺(天台宗)は鎌倉時代からこの地にあったが、明治40年(1907)西五反田へ移転。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌・牛込氏等多くの方が信仰したと言われている。この付近には、以前芸人が多く住んでいた。(柳家金五郎・山下敬次郎・神楽坂はん子杵屋勝東治若山富三郎勝新太郎
 ●相馬屋
 創業400年位 初めは紙すき職人、明治になって紙問屋。尾崎紅葉が、店頭に捨てられていた洋紙の束を見て、罫線を入れて原稿用紙として販売してみたらどうだろうと提案した。売り出すと大変な人気となり、作家たちは、相馬屋の原稿用紙で書くことがステイタスとなり、良く売れた。尾崎紅葉夏目漱石坪内逍遥北原白秋石川啄木らが出入した。
 ●見番
 芸者衆の手配や稽古を行う所。正式には「東京神楽坂組合」と言い、2階が稽古場で、1階は経理事務所。昭和12・3年当時は神楽坂花柳界最盛期で、牛込三業会(現在の東京神楽坂組合)は、芸妓・幇間合わせて約600名、料亭・待合約150軒の大所帯だった。昭和30年代の高度成長期には、芸妓200名以上料亭80軒を超えたという。その頃“神楽坂はんこ”が、「こんな私じゃなかったに」「芸者ワルツ」を大ヒットさせ、神楽坂花柳界を全国に名を馳せた。
 ●熱海湯
 昭和26年開業の銭湯。平成19年に放映された人気テレビドラマ「拝啓父上様」(倉本聰脚本)のロケ地になった。番台や富士山のタイル画がある。
小栗横町 小栗姓の旗本屋敷が横町の出口と入口にあった。別名熱海湯通り。
 ●泉鏡花北原白秋旧居跡
 泉鏡花は明治36(1903)年3月から約3年住む。芸者桃太郎と同棲を始める。{明治32年(1899)料亭ときわ家で伊藤すず(桃太郎)と初めて会う}
その後.北原白秋明治41年(1908)から約1年住む
 ●東京理科大学・近代科学資料館
 東京理科大学は、私塾として明治14年(1881)東京大学物理学科卒業生21名によって設立した。この資料館は、平成3年(1991)、卒業生の故二村富久氏の寄付で、明治後期の東京物理学校の校舎を復元し、1.2階を近代科学資料館として一般に開放。そろばん・計算機・エジソンの蓄音器並びに書籍類を陳列している。
 ●神楽坂若宮八幡神社
 源頼朝が文治5年(1189)奥州征伐に向かう折に戦勝祈願をしたと伝えられる。征伐後、社を建てて鎌倉鶴岡若宮八幡宮分祀した。当初は仁徳天皇を祀っていたが、その後、父である応神天皇も祀られた。八幡神社の総本社は大分県宇佐市宇佐神宮宇佐八幡宮)。後に太田道灌によって再興される。
 ●遠州流茶道宗家・13世家元小堀宗実邸
 小堀遠州は、大名屋敷・寺等の庭園造りで有名。若い頃から古田織部茶の湯を学び、家光の茶道師範を務め、諸大名・公卿・僧侶などに茶道を指導した。
 ●蕎楽亭
 店主の故郷・福島県会津産の玄そばを石臼で挽いて手打にした十割そば
 ●鎮護山善国寺・毘沙門天(多聞天)
「毘沙門さま」の愛称で慕われる神楽坂の守護神。日蓮宗 山の手七福神の一江戸城の北の方角を護る。徳川家御三卿の田安家・一ツ橋家の祈願所。徳川家康が文禄4年(1595)日本橋馬喰町に天下の平静を祈願し建立したのが初めで、寛文10年(1670)に火事で焼失、麹町に移転した。その名残が、市ケ谷の日テレ通りが新宿通りに出会う坂を「善国寺坂」と今でも呼ばれる。
享保12年(1727)再度火災で焼失、寛政4年(1792)この地へ移転。以来現在に至るまで多くの信仰を集めている。明治20年代頃から寅の日の縁日で賑わい、夜店が出始める。石虎の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年
イギリス式測量の几(き)号水準点(18.8m)で、残存している数(250個の内90個は見つかっている)は全国的にも少ない。日比谷公園にある烏帽子石にも同じ不のマークがある。
 ●牛込城跡
 平山城 標高約26m 牛込氏は、赤城山の麓、上野国 (群馬県) 勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。 天文年間(1532〜55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏康の家臣となり、牛込をはじめ、桜田・日比谷・赤坂を領有した。
天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、その頃に牛込城が築城されたといわれる (城門・城館など場内の構造については記録がなく、詳細は不明)。天正18年(1590) 北条氏滅亡後牛込氏は、徳川家康の家来となり、牛込城は廃城にされる。
 ●光照寺
 浄土宗増上寺の末寺で、慶長8年(1603)増上寺の末寺として神田に創建された名刹。正保2年(1645)当地に移転してきた。本尊行基作の「阿弥陀如来坐像」、地蔵菩薩坐像(延命安泰地蔵・子安地蔵)元は近江国三井寺にあった安産の地蔵。
 ・出羽国(秋田山形)松山藩主の墓
 酒井忠恒から七代忠良までの歴代藩主一族47基の墓がある。
 ・諸国旅人供養碑 文政8年(1825)神田松永町旅籠屋、紀伊国屋利八が旅籠で客死した人の菩提を弔う為に建立した。安政5年(1858)まで49名の名 が刻まれている。新宿区登録有形文化財
 ・便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓 江戸時代中期から後期の狂歌師、太田南畝(蜀山人)等と交流があった人物。(区登録文化財
 ・海ほおずき供養塔 昭和16年東京の海ほおずき業者が建てた。テングニシという巻貝の卵嚢。 7月恒例神楽坂祭りの「ほおずき市」・「阿波踊  り」が有名
●天文屋敷跡
 江戸時代の天文台。明和2年(1765)宝暦暦不備を正す為、天文方・佐々木文次郎が、新暦調御用所を造る。明和6年(1769)修正。新暦が出来た後も存続したが、木立が茂り観測が難しくなり、天明2年(1782)浅草片町裏に移された。浅草天文台葛飾北斎の「浅草鳥越の図」に描かれている。

◆「迫る参議院での採決 安保 国会最大のヤマ場へ」(2015年9月13日放送 8:00 - 9:54 TBS「サンデーモーニング」より)
 先週日曜日、新宿で開かれた安保法案の反対集会、集まった人の中には公明党の支持母体・創価学会員の姿もあった。火曜日、創価学会員からの9000人以上の署名について山口代表は「一般に署名や要請というのを個々に代表である私が受け取るということは行っておりません」と話し、同じ日、都内のホテルでは党内全ての派閥から支持をとりつけ、無投票で自民党総裁再選を果たした安倍総理、一方、20人の推薦人が集まらず野田氏は出馬を断念した。安倍陣営が無投票にこだわった理由の一つとして、官邸関係者は「選挙戦になって、街頭演説で選挙カーに乗った際、安保法案の反対デモにあったら何が起きるかわからないという危機感があった」と話している。
 参議院での採決の前提となる「中央公聴日」の開催日をめぐって8日、与野党で協議が行われ与野党で議論は平行線をたどったが、鴻池祥肇委員長が強制的に採決をとった結果、与党などの賛成多数で15日に開催されることになった。その後の協議では、翌16日にも地方公聴会を行うことが決定した。これにより、安保法案の委員会採決は17日に行われる可能性が高まった。
 安保法案を巡り、11日に行われた参院特別委では、民主党福山哲郎参院議員が「まさか参議院でこんなに答弁を取っ散らかしたまま強行採決をすることはないと、ここでお認めいただきたい」と訴え、安倍首相は「決めるときには決めていただきたいと思っております」と答えた。政府・与党は17日のうちに本会議を開いて成立させたい考えだ。
 JNN世論調査では、安倍内閣の支持率は先月に続き「不支持」が「支持」を上回る結果となった。一方「集団的自衛権行使のための安保法制について「反対」と回答したのは61%で、「政府・与党の説明」について「不十分」と受け取った人は全体の83%にものぼった。そんななか、国民の意見を聞く場として15日には参議院で中央公聴会が、16日には横浜で地方公聴会が開かれることになった。これらを経て、政府与党は17日木曜日のうちに安保法案を成立させたい考えだが、野党の反発を受けて本会議採決が18日にずれ込む可能性がある。また、15日の中央公聴会では参議院で11日まで参考人を募集した。民主党によれば過去10年の募集では17人の応募が最高だったが、今回は95人から応募があり、その全員が安保法案に「反対」の立場を示しているという。また国会周辺では連日デモが計画されている。
 姜尚中氏は、”9・11”によるショックを利用したアメリカの構造改革ショック・ドクトリン”を例に上げ、「安保法案の経緯を見ると、外側との関係でショックを与えて、日本の戦後民主主義それ自体を根底から変えていこうとする思惑を感じる。戦前も結局は統制のきかない外側の暴走が内側に波及したわけで、もう一回自衛隊を外に出した場合、自衛隊の方が犠牲になったり、民間人を射殺することがあった場合のある種のショックは、合法的な手続きを経なくても一挙に何かを変えられる。憲法98条は結局憲法という最高法規でこれに反する法律あるいは国務行為というのは一部もしくは全体が効力をなくすことを規定している。今回は内閣が憲法に違反することを白昼堂々とやっているわけで、暴君征伐論というか抵抗権というか、やっと国民が『憲法を自分のものにしよう』という動きがいま国会前に始まっている」とコメントした。評論家の大宅映子さんは「総裁選をめぐって、『この大事な時期に党を割ってはいけない』とか理由にならない理由が出た。違うことは良いはずなのに。違う人も立候補したうえで、戦ったうえで正々堂々と勝ったほうがどれだけ国民も安心したか。本当に民主主義の根源に関わる問題。日本はなにか『違うのはいけない』と思っている節がある」とコメントした。大崎亜希子氏は「安全保障の政策について議論するいい機会だと思っていたが、今回あまりにも多くの法案、多くの内容がまとめて審議されたので、どうしても複雑になってしまうし分かりにくい。やはりもう少し違う議論のプロセスとか、論点の建て方はなかったのかと思ってしまう」とコメントした。安保法案について青木理氏は「戦後70年の日本の矜持みたいなものを根本からひっくり返している。今回唯一良かったことがあるとすれば、『憲法は権力者を縛ることだ』ということが人口に広く膾炙したことだと思うが、どうやらそれを無視する向きもある。立憲主義を無視する政権をこのまま存続させるべきなのか。『この政権を認めるべきかいなか』という議論を国民の側からする段階に入ってくるとおもう」とコメントした。
 安保法案について岸井成格氏は「審議すればするほど憲法違反の疑いが非常に強くなってきた。もうひとつは自衛隊をとにかく海外で武力行使をさせるところに道を開くのがこの法案の目的なんですよね。いずれも集団的自衛権自衛隊の派遣もそうですが、どちらも日本の防衛じゃない。賛成している人は政府の説明を誤解して受け取っているんだと思う。『集団的自衛権』という言葉が悪いと思う、一緒になって自衛するイメージを思い起こさせるから。政府側もそうした説明責任を怠っている。私としては、こうしたものは廃案にするか撤回するべきだとおもう。今野党は結束して廃案に追い込むため『あらゆる手段を講じて』と行っているが、野党弱体化の流れの中でどこまで出来るか。日程を1、2日ずらすぐらいで終わっちゃうのか、そのへんになにか起きるのか。そのへんの見通しが立たない。28日の深夜まで国会がもつれ込む可能性もある」とコメントした。
 安保法案をめぐる公明党の動きについて岸井成格氏は「創価学会の人も気がついてきたとおもう。歯止めをかけるといいながら、この法案は審議するたびに歯止めを外してきた。そこを公明党はそうじゃない』と言っているが、創価学会は『それは違うのではないか』と疑問を持ち始めている」とコメントした。

<9月13日生まれの先人の言葉>
幣原喜重郎(第44代内閣総理大臣
 ・国際問題に素養も理解もなき民間の喝采を博せんとする外交ほど国家の前途に取って重大なる憂患はない。
 ・文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう。
大宅壮一(評論家)
 ・男の顔は履歴書だ。
 ・一億総白痴化
 ・わかりやすい表現を恥じる必要はない。
 ・50人の味方がいて、50人が敵。それでいいじゃないか。全部を味方に引き入れることなんてできっこない。
山田洋次(映画監督・脚本家)
 ・自分が下手だということを知っている俳優は、何とかして高い目標に近づくべく懸命の努力をする。すると観客に伝わるんですね。そのめざしている高みが。
 ・ビジネスマンが余暇を話題にするのは、それだけ仕事に追われて生活に余裕がない証拠。寅さんこと車寅次郎は余暇を探しまわったりしない。彼の人生は全部余暇だから。
安藤忠雄(建築家)
 ・世界に出たら、傷を負うこともあるでしょう。でもいいじゃないですか。そのくらいのつもりで海外を経験してほしいですね。
 ・ギリギリの状態に何度も追い込まれた人でないと、直感力は働かない。最近の若い人には優秀な人材がたくさんいますが、ギリギリまで追い詰められたという経験がないから、直感力がないんじゃないかと思います。
 ・豊かさというのは、直感力を奪うんですね。豊かになるのはいいことですが、これまでの歴史を見ても、豊かさを極めた国は滅びています。