日本郵政・ゆうちょ銀・かんぽ生命 東証一部に上場へ 。(通算1394日・(1394日間継続中)

ユネスコ憲章記念日
 1946(昭和21)年の今日、ユネスコ憲章が発効し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が発足した。日本は1951(昭和26)年7月2日に加盟した。

<今日のニュース>
日本郵政・ゆうちょ銀・かんぽ生命 東証一部に上場へ今後は成長力を示せるかが焦点となる。。
 日本郵政・ゆうちょ銀・かんぽ生命が4日に東証一部に上場した。売り出し価格で計算した3社の時価総額は16兆円を超えていて、NTT以来の大型上場となった。時価総額は約16兆6569億円で、NTT以来の大型上場となった。日本郵政西室泰三社長は、日本経済の活性化にも役に立つと確信している、などと発言。小泉元総理は、これからちゃんと目標に向かって進んでもらいたい、などと発言。また、郵政3社の株は、三菱東京UFJ銀行などの一部の銀行を通しても販売された。株式投資になじみの薄い層を取り込む形となる。郵便局は約2万4000局あり、セブン-イレブンの約1万8000店を上回るが、郵便サービスでは全国約8割の地域で赤字という。コンビニのない場所では、コンビニみたいにやるとかの余地があり、郵便事業よりも収益を上げる可能性がある、等と話した。なお、一部の郵便局ではみまもりサービスが始まったという。今後は成長力を示せるかが焦点となる。
◆変わる!新宿駅南口。
 駅の利用者数日本一の新宿駅、約15年前から工事が進められている。国内最大級のバスターミナルが出来る予定。東京都心では交通の要所として渋谷や八重洲に大型バスターミナルの建設を計画されている。バスターミナルの事業費は約700億円で来春出来る予定。

<11月4日の主な出来事>
 ・1979年日本シリーズで広島カープ近鉄を破り初の日本一に。1980年巨人の王貞治と西武の野村克也が現役を引退。1980年米大統領選で共和党ロナルド・レーガンが当選。1989年オウム真理教被害者の為に活動していた坂本堤弁護士一家が突然行方不明に。1995年にオウム真理教関連事件の捜査で3人の遺体発見。2008年米大統領選で民主党バラク・オバマが当選。

<11月4日生まれの先人の言葉>
泉鏡花(小説家)
 ・およそ世の中に、家のために、女の子を親勝手に縁付けるほど惨(むご)たらしい事はない。
 ・凡(およそ)世の中に、我が児の事を饒舌(しゃべ)る奴を聞くほど、退屈なものはない。
●上村 松篁(画家)
 ・鳥の生活を理解しなければ、鳥は描けない。
 ・花鳥画の世界。品が悪かったらどうにもならない。心を磨いていかないと、いい絵描きにはなれません。

<本の紹介>
・ 周恩来『十九歳の東京日記』(周恩来矢吹晋・鈴木博著、小学館
  http://www.amazon.co.jp/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5%E3%80%8E%E5%8D%81%E4%B9%9D%E6%AD%B3%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%8F%E2%80%951918-1-1~12-23-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%91%A8-%E6%81%A9%E6%9D%A5/dp/4094036210
 勉学か革命か──悩める帝都の青春日記。80年ぶりに発掘された19歳の周恩来による東京滞在日記(1918、大正七年)を全文収録。浅草オペラ、上野美術館、銀座大型百貨店、神田書店街、両国の相撲、そして次第にエスカレートする留学生運動と受験失敗……。若き周恩来は果たして東京で何を見て、何を経験したのか? その後の日中友好関係を築く原点ともいうべき一年間を、充実した解説コラム、詳細年表、写真、地図付きで活写する。
 1917年、19歳の若き周恩来は天津の港から東京へ向けて出発しました。日本に留学し、一高(東京帝国大学予科)合格を果たすためです。
当時の南開学校には、中学校以上の高等教育課程がなく、成績優秀者は日本留学を志す学生が多くいました。周恩来も成績優秀者の一人で「特等」で卒業したほどの秀才でした。眉目秀麗の美青年でした。当時の中国は、列強諸国によって翻弄された混乱の時代でした。1912年、孫文辛亥革命によって清朝は滅亡し、中華民国が建国されました。しかし、袁世凱が皇帝を名乗って孫文と対立するなどまったく一枚岩ではなく、袁世凱死後も民国政府は全土を掌握する力はなく、各地が勝手にやっているという状態でした。神田神保町千代田区)、この界隈こそ周恩来の東京生活の拠点でした。
 この日記を読むと、朝寝坊したり、勉強をサボったり、なかなか点数が上がらなくて自暴自棄になっている様子が書かれています。今や伝説的な指導者として語られる周恩来も、この頃は普通の若者と同じく悩んだり、失敗していたんですね。なんか親近感がわきますね。そんな周恩来、結局は一高受験に失敗してしまいます。日本語で受験しなければならないハンデ、奨学金がないための生活苦、大正モダニズムを迎えて浅草・銀座などに華開いた映画・オペラ・芝居・デパートといった眩しいまでの娯楽、そうしたものが周恩来の勉学を妨げたことが伺えます。しかし、何より彼を苦悶させたのは国を憂う心でした。1918年1月23日、日記の中でこう記しています。今朝、『朝日新聞』に載っている日本の昨日の国会の事情、各党派の質問の様子、寺内内閣の各大臣の演説を見て、大きな感慨を催した。わが国は現在まだ国会がなく、臨時参議院は問題にならないので、結局、絶対に解散すべきである。将来の政局は、新国会であれ、旧国会であれ、いずれにせよ能なしである。人民の水準、常識がこんな調子で、どうして優秀な国会など持つことができよう。仕官する者で、真に国のためを思っている者が何人いるだろう。考えれば、実に恐ろしいこどだ。憂国の念が片時も離れず、勉強に手がつかない。そんな感じが伝わってきます。そうした思いに導かれて、周恩来は日本留学中にマルクス主義に傾倒していきます。「中国共産党周恩来」の原型は、日本でできたんですね。
 そして1919年、母校の南開学校が大学部を創設するということを知り、帰国を決意します。帰国前の最期の思い出に訪れたのが、京都・嵐山でした。そこで、あの有名な漢詩「雨中嵐山」を詠います。亀山公園(京都市右京区)にはその漢詩を刻んだ石碑があり、中国の要人や観光客が訪れる定番スポットになっています。
 
 雨中二次遊嵐山,  (雨の中を二度 嵐山に遊ぶ)
 両岸蒼松,夾着幾株桜。  (両岸の青松は桜花もまじえ)
 到盡處突見一山高,  (道の尽きる処 高山を見る)
 流出泉水䖝如許,  (湧き出る泉は緑に映え)
 繞石照人。  (石をめぐりて人を照らす)
 瀟瀟雨,霧濛濃,  (瀟々たる雨 濛々たる霧)
 一綫陽光穿雲出,  (一筋の日の光 雲間より射し)
 愈見嬌妍。  (ますますなまめかし)
 人間的萬象眞理,愈求愈模糊,  (人の世のもろもろの真理は模糊たるも)
 模糊中偶然見着一點光明,  (模糊たる中に一筋の光を見るは)
 眞愈覺嬌妍。  (ますますなまめかし)
 
 詩の最後の部分である「模糊たる中に一筋の光を見る」は、マルクス主義に出会えたことの比喩と言われています。帰国後の周恩来は理想に燃え、五・四運動を皮切りに学生運動のリーダーとなって頭角を現していくのでした。