東京を歩く①「皇居東御苑ガイド①」

◆今日から「東京を歩く」シリーズのスタート。まずは、皇居東御苑案内の第1回目。
・大手門
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い徳川家康は天下の支配権を握り、同8年征夷大将軍に任じられ、江戸は250万石の大名の城下町から一躍全国の中心になりました。このため、慶長11年(1606)藤堂高虎の設計といわれます旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどで完成 したそうです。
 元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式(ますがた)の城門になったといわれています。大名はここから登城していました。大手門の高麗門をくぐって中に入ると、枡形と呼ばれる四角く囲まれた広場になっています。この枡形は、敵が城内にまっすぐに侵入するのを防ぐとともに、攻撃の際には兵の集合場所にもなる施設で、「大手門渡櫓」の正面の塀には穴が開いています。周囲の白壁には「狭間」という銃を撃つための穴があります。江戸城の城門の多くは、この形式でした。
大手門の警備は、鉄砲30、弓10、長柄20、持筒2、譜代10万石以上の大名が これを勤めたそうです。旧江戸城の正門で、三百諸侯が威儀を正して登城した門になり、大手下乗門(大手三の門)、 大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至りました。
大名や役人が本丸の登下城する際の正門であった。登城する者は、大名と50歳以上で特に乗輿を許された役人以外は、門外の濠端の下馬札の建っているところで乗り物を降り、徒歩で入城した。
 この門は元和6年(1620)、伊達政宗、蒲生忠郷、相馬利胤の御手伝普請によって築造されたが、明暦の大火(1657)で類焼し、以後何回かの修理を重ねてきたが、昭和20年3月の東京大空襲で渡櫓が焼失していたが、昭和42年(1967)に修復工事が完成し、かっての江戸城正門の偉容が再現された。
塀の前にはしょちほこがあります。1945年の戦火で消失した時の「大手門渡櫓」の屋根に飾られていたもので、明暦の大火後の再建時に製造されたしゃちほこのようです。

三の丸尚蔵館
 三の丸尚蔵館は、平成元年6月、今上天皇陛下と香淳皇后が、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれてきた、絵画・書・工芸品など美術品6000点余を国にご寄贈されたのを機にこれらの美術品を大切に保存管理するとともに、展示により一般公開するなどを目的として平成4年(1992年)に建設されました。その後、秩父宮妃、香淳皇后高松宮妃のご遺贈品と合わせ、約9500点が収蔵されています。

・大手三ノ門跡
大手下乗門・下乗門・極楽門ともいう。大正8年(1919)宮内省諸施設を建設する際、桔梗門から天神濠に至る旧二の丸と三の丸の間の濠約3.9haが埋められたため、門前の石垣沿いの濠も下乗橋も現在はない。この門前の石垣沿いには壕あり、木橋が架かっていたが、大正期に宮内庁の建物を建てる都合で、埋められた。この橋前で御三家(尾張紀州・水戸の3徳川家)を除くすべての大名・役人は、駕籠をおりて徒歩にて入門をした。

・同心番所(どうしんばんしょ)
番所」とは、警備の詰所のことで、この同心番所と百人番所、大番所の3つが残っています。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。江戸城の正門であった大手門から入城した大名が最初に通る番所で,与力,同心が詰めて警護にあたっていたところです。主として登城する大名の供の監視に当たっていました。同心は、下級役人で庶務や警察の業務をこなしていた。

・百人番所(ひゃくにんばんしょ)
江戸城の正門だった大手門から,本丸に入るときの最大の検問所で、大手三之門の前に設けられたのがこの百人番所で,甲賀組,根来(ねごろ)組,伊賀組,二十五騎組の4組が昼夜交代で護りを固めていました。各組には,同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれました。番所は南北45m。

<11月12日生まれの先人の言葉>
串田孫一(詩人)
 ・どうかしましたか。誰かにそう言われる時は、必ずどうかしている。
 ・忍苦とは、晴れ晴れした日の予感を抱き、現在をその日のために、どうしても歩まねばならぬ当然の道として、黙って進むことである。
 ・裏切りがいやならば期待はしないほうが賢明だ。だから裏切りの大きさは期待の熱意に正比例する。