「人足寄場」について

◆人足寄場
「人足寄場」は、佃島のそばにありながら、「石川島人足寄場」とも呼ばれます。江戸時代に佃島と呼ばれたところは、現在は「佃1丁目」です。そして、「人足寄場跡」は、現在は「佃2丁目」です。また、現在は、人足寄場跡は、佃島からは、川幅の狭い佃堀に架かった小さな橋(住吉小橋)を渡った場所にあります。そのため、人足寄場も佃島にあったように思いがちです。そうしたことから、「人足寄場に、なぜ『石川島』という名前が冠されるのか」と疑問に思う人もいると思います。
 人足寄場は、佃島に造られたのではない。佃島は、正保元年(1644)に、摂津国佃村の漁師が、幕府から拝領した隅田川の寄州を埋め立てて築いた島です。一方、石川島は、江戸時代初期には、すでに隅田川の河口にありました。つまり、石川島の方が、早くから島として存在した。人足寄場は石川島と佃島の間の浅瀬を埋め立てて築いた土地に設置されました。ですから佃島ではない。石川島は江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれたと江戸名所図会に次のように書かれています。
 鎧島  佃島の北に並べり。いま、石川島と号(なづ)く(俗に、八左衛門殿島といへり。皆、大猷公(徳川家光)の御時、石川氏の先代、この島拝領するより、かく唱ふるとなり。寛政4年、石川氏、永田町へ屋敷替へありしより、炭置場・人足寄場等になれり)。旧名を森島といふよし、江戸の古図に見えたり(文亀古図)また、その図に記して云く、この島、一名を鎧島と号(なづ)く。(後略)
 石川島というのは、3代将軍家光の時代に、旗本石川正次が拝領したため、石川島と呼ばれるようになったようですが、石川正次は、通称八左衛門といったので、「八左衛門殿島」とも呼ばれたようです。この石川島と佃島の間は、葦が繁る浅瀬だったようです。そこを埋め立てて陸地としてそこに鬼平が、寛政2年に人足寄場を開設しました。
「人足寄場」というのは、無宿人を集めて、仕事を覚えさせる施設です。難しく言うと「授産更正施設」です。「人足寄場」が作られた背景には、江戸時代後期の治安の悪化がありました。長谷川平蔵宣以が火付盗賊改めを命じられた時代、江戸では無宿人が増えつづけました。無宿人というのは、人別帳の記載を削除された人を言います。人別帳から削除されるケースは、貧窮により村を離れたり、久離や勘当により親族関係が断絶した場合、追放刑による場合などがあります。無宿人が最も増えたのが天明6年・天明7年の頃だったとされています。当時は、冷夏・風水害・火山の噴火などが続き、農村が疲弊し、農村での生活ができない人が村から逃げ出して江戸に流れ込んでいました。長谷川平蔵宣以も出動し、見事、打ちこわしを取り鎮めきました。この天明の打ちこわしにより、田沼意次体制が完全に崩壊し、天明7年6月松平定信が老中となります。松平定信は、無宿人対策に取り組みはじめ、寛政元年頃、無宿人対策について意見を求めました。この際に、平松義郎「人足寄場の設立と変遷」によれば、長谷川平蔵宣以が、無宿人収容施設の構想について意見を述べ、その収容施設を引き受ける意思を伝えたと書かれています。長谷川平蔵宣以は2回にわたり上申書を提出し、収容施設の位置、作業、教誨、懲戒などについて意見具申しています。そして、寛永2年2月19日に正式に収容施設の設立を命じられています。新しく設立される収容施設は「加役方人足寄場」と命名されています。「加役方」とは「火付盗賊改」ということですので、「火付盗賊改」の管理下にあるという意味だそうです。長谷川平蔵宣以は、火付盗賊改のまま、寄場の責任者となりました。これを指して瀧川政次郎「長谷川平蔵」によれば「寄場取扱」を命じられたと書いてありますが、平松義郎氏によると「平蔵の寄場主管たる職を特称して寄場取扱と呼んだ説明があるが、そういった職名はない」そうです。「人足寄場」は、隅田川河口にある石川島周辺を埋め立てて建設することになりました。なぜ、川の中の小島が選ばれたかというと、逃亡を防ぐためであった。

<本の紹介>
・はじめての御朱印ガイド(八木 透・監修)
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・江戸名所図会を読む(川田寿・著)
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・江戸切絵図散歩 (池波 正太郎著・新潮文庫)
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・ひみつの教養 ~誰も教えてくれない仕事の基本(飯島勲著)
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<11月21日生まれの先人の言葉>
服部金太郎セイコー創業者)
 ・私が他人より優れたものがあったとするなら、それはつねに世間より一歩だけ先んじて、仕事をすることを心がけていた点である。この一歩だけ先んずることは、いちばん大切なことで、何歩も先に進みすぎると、世間からかけ離れてしまう。そうなると預言者である。商人は預言者ではない。
 ・正直は最善の商道である。外国商館が私の小さな店を信用し、何ぞざん新なものとか、何ぞ珍しい時計でも入荷すると、他の店よりまず私の店に売ってくれた。私の店に来れば、時計は豊富で、おのずから客足が多くなり、ここに店運発展の機運を形成するに至った。
三原脩プロ野球監督)
 ・野球は筋書きのないドラマである。
 ・弱小チームを強くするのは男子の本懐である。ただし、チームを強くするのは監督ではなく、球団の姿勢だ。