東京を歩く⑤「皇居東御苑ガイド②」。いい夫婦の日。

皇居東御苑案内第二回目である。(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20151112#p1
・中之門跡
 百人番所の正面には、本丸中の門石垣がある。36トンにも及ぶ巨大な石材を切込接ぎ・布積みという技法を用いて、隙間なく美しく積んでいるのが特徴的です。その石材が石垣の横に展示されている。表面が広く奥行きが短い築石、瀬戸内産花崗岩。お隣にも瀬戸内産花崗岩と、大きな石の切り出しが困難な伊豆半島安山岩。因みに、「中之門」自体は、関東大震災で大破し、以後、再建されていません。
明暦3年(1657年)の大火以前の中之門の遺構が出土しました。現在の中之門は万治元年(1658年)に熊本藩主 細川綱利により再構築されました。本丸中之門石垣の築石は、35トン前後の重量を持つ、江戸城内でも最大級の巨石が使用され、布積みという技法で積まれています。また、この中之門石垣には、本丸御殿への登城口として渡櫓門が配置されていました。特別史跡江戸城跡」に指定されている皇居内の石垣の「本丸中之門石垣」修復工事は平成17年8月から平成19年3月にかけて行われました。修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の形状に復元することを目標にし、三次元レーザ測量から築石一石ごとの立体モデルを作成し、コンピュータ画面上で、石垣創建当時の線形を推定しました。さらに技術的検討を加え、石垣修復計画を立て、行われました。中之門石垣解体に伴い、築石同士を連結する銅製の「契り(ちぎり)」や築石の据付に使用した銅製・鉄製の「敷金」など様々な遺物が出土しました。石垣構造としては大変珍しい大鎹(おおかすがい)が出土しました。これは築石の転倒防止のため築石裏側に設置された石と連結した補強材で特異な構造です。

・大番所
 「本丸中之門石垣」の間を抜けるとすぐに、3つ目の番所「大番所」。中之門の内側に設けられ他の番所より格上で,位の高い与力,同心が詰めて警護にあたっていたところです。前の坂を上がったところが本丸の入り口で、中雀門がありました。

・中雀門跡
「大番所」を過ぎると坂があり、その先に「中雀門」が見えてくる。別称「書院門」で、最後の関門。上り坂を囲む石垣は切石積みとなっています。坂を右に曲ると中雀門がある。

・多聞長屋
 造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていました。

・富士見櫓
 その広場の左側にある小道を進むと「富士見櫓」。「富士見櫓」は内堀通りから見えます。

・松の廊下跡
 案内板内板によると、廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来。江戸城中で2番目に長い畳敷きの立派な廊下だった。そんな廊下の面影はこれっぽちもなく、雑草の中に石碑がポツンというのが何とも悲しいですが、松の廊下といえば、言わずと知れた“赤穂浪士討入り”の原因となった事件。浅野内匠頭が、吉良上野介を斬り付けた理由は、明らかになっていない。

・石室(いしむろ)
抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の坂が使われています。

・本丸跡
 ここは、本丸地区は、江戸城の中心をなし、周囲に石垣と濠をめぐらした高台で、約13万平方メートル(約4万坪)と最も広い場所です。江戸城は、天正18年(1590年)の徳川家康入城以来、秀忠、家光の三代にわたって完成されたのですが、その当時の本丸の建物は表・中奥・大奥からなる壮大豪華な殿舎(面積約一万一千坪)が所せましとたちならんでいました。天守閣のほか、櫓が十棟、多聞十五棟、諸門二十数棟がありました。その後、江戸城本丸内では五回の罹災にあい、そのつど復旧されましたが、文久3年(1863年)の火災以降は再建されませんでした。現存するものは、富士見櫓と富士見多聞のみです。現在は、本丸跡地として、大きな芝生の広場になっています。
 中央に石のプレートがありますが、明治4年(1871年) から大正11年(1922年)まで、陸軍近衛師団がこの地で空砲による報時を行ったことを示す石碑。砲自体は、「江戸東京たてもの園」に保管、展示されています。

天守閣跡(てんしゅかくあと)
 江戸城天守閣は、二代将軍秀忠の代の慶長11年(1606年)と翌年の2年にわたって建設され完成しました。その後、元和8年(1622年)、承応2年(1635年)とたびたび修築され、寛永14年(1637年)三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内でも最も大きな天守閣が完成しました。
 天守閣は、地上からの高さは58mあり、天守閣の基礎石積みは、44メートル四方、高さ18メートルで、その上に金色のシヤチを頂く外観五層、内部6階の天守がそびえていました。しかし、明暦3年(1675年)の大火(振り袖火事)で焼失した後は、再建されていません。基礎石である石垣だけが残っていて、現在の石垣の高さは約10mです。明暦の大火の翌年、加賀藩前田家の普請により、高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれる。四代将軍綱吉の叔父である保科正之が、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであると提言し、以後天守閣は再建されることはなかった。

・北桔橋門(きたはねばしもん)
本丸、大奥から外部に直接通じる門であり、最重要門ということで、門をくぐった先にある濠を深くして、石垣は最も強固なものだったようです。

・汐見坂
まず、案内板に明治初頭の「汐見坂」の写真が掲載されている。石垣の石をよく見ると、記号的なものや変な模様の石が見受けれます。

いい夫婦の日 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20141122 
 17回目を迎える本年の「いい夫婦 パートナー・オブ・ザ・イヤー2015」は、馳浩高見恭子夫妻と藤井隆乙葉夫妻に決定された。 今年の「いい夫婦 パートナー・オブ・ザ・イヤー」は、区切りとなる結婚年数を迎えられたご夫婦のお祝いをテーマとしているそうだ。衆議院議員馳浩さん・タレントの高見恭子さん夫妻は、昨年から今年に掛けて結婚20周年となり、さらに今年は馳さんが文部科学大臣に就任され重責を担うなか、高見さんは内助の功として支えられている様子から選出されたようだ。加えて、芸人である藤井隆さん・タレントの乙葉さん夫妻は、今年、結婚10周年を迎えられ、一般からの推薦理由でも「結婚10周年というのに新婚のような仲睦まじい感じがした」、「藤井さんが奥様を大事にされている」といった声があったことから選出されたそうだ。

<本の紹介>
・神楽坂がまるごとわかる本(渡辺 功一著・けやき舎)
 http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E6%A5%BD%E5%9D%82%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%94%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E6%9C%AC-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E5%8A%9F%E4%B8%80/dp/4885461790

 <11月22日生まれの先人の言葉>
●斎藤英四郎(新日本製鉄元社長、第6代経済団体連合会会長)
 ・明るさを求めて暗さを見ず。今日失敗しても明日に明るさを求める。人の欠点より長所を見る。その方が人生楽しいじゃないですか。
出井伸之ソニー株式会社元CEO)
 ・プロフェッショナル経営者の最大の悩みは、社内の求心力をいかに確保するかです。創業者ならば、『会長が言っているから』として社内が納得することでも、プロフェッショナル経営者が求心力を保つには、売上高や利益を増やして、経営の成果を数字で示すしかありません。そこで、プロフェッショナル経営者はどうしても、短期的な業績アップに力を注がざるを得なくなります。
・ビジネスの答えはひとつとは限らないのに、日本全国で同じ答えを求めて学力テストをやっている。これは気持ちが悪いし、そんな人生はつまらない。これまでの日本の教育はメモリー重視です。本を読んで目に入った内容を頭に記憶し、手で再現する。単純な記憶型です。入ったものを加工し、違う形でアウトプットする回路が欠落しています。