北日本・北陸は冬の嵐に、東・西日本も山間部は積雪のおそれ。東京を歩く⑦「築地〜新橋〜虎ノ門ヒルズ」。

北日本・北陸は冬の嵐に 東・西日本も山間部は積雪のおそれ(26日夜の天気予報から)
 強い寒気が南下している影響で、松江では26日夕方に初雪の発表があり、西日本・東日本の平地で今シーズン初めて雪の便りが届いた。28日にかけて日本列島は冬の嵐となりそうだ。
 急速に発達する低気圧の影響で、28日(土)にかけて、北日本北陸地方を中心に暴風や高波に警戒が必要だ。特に、北海道では大雪や猛ふぶき、吹きだまりによる交通機関の乱れに警戒するとともに、着雪にも注意が必要となりそうだ。また、全国的に強い寒気が流れ込むため、東日本・西日本の山地でも積雪となる所がある見込みで、交通障害に注意が必要だそうだ。

◆「東京を歩く⑦」昨日に続き、東京を歩くシリーズ。今日は、「築地〜新橋〜虎ノ門ヒルズ」を紹介したい。
・「築地〜新橋〜虎ノ門ヒルズ」コース案内
・メトロ築地駅築地小劇場桂川甫周屋敷跡→芥川龍之介生誕地→外国人居留地の碑(明石小学校)→カトリック築地教会明治学院発祥の地→慶應義塾大学発祥の地→アメリカ公使館跡→東京運上所碑→電信創業地跡→あかつき公園T(シーボルト胸像)→月島の渡し跡→波止場公園→海軍経理学校の碑→勝鬨の渡しの碑→軍艦操練所跡→波除神社→水神神社(旗山の碑)→築地市場場外→海軍軍医学校の碑・海軍兵学校跡→采女橋→新橋演舞場→金田中→旧新橋停車場→汐留シティ→日比谷神社→マッカーサー道路→切腹最中(お土産)→田村右京太夫屋敷跡→青松寺→愛宕山神社→虎ノ門ヒルズ(見学)→東京メトロ虎ノ門駅」又はJR「新橋駅」

・「築地小劇場跡」
関東大震災後の大正13年小山内薫土方与志らは、ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指し、歌舞伎や新派の商業主義を批判し、芸術志向的な演劇に取り組み、築地小劇場はその拠点でした。
・「桂川甫周(ほしゅう)の屋敷跡
甫周が「解体新書」の翻訳作業に参加したのは、わずか21歳の時です。ツンベルクについて外科術を学び、江戸幕府医官となりました。また、徳川十一代将軍家斉からロシア事情の調査を命ぜられるなど、外国事情にも精通していました。
・聖路加病院の敷地に立つ芥川龍之介生誕地、浅野内匠頭屋敷跡
・外国人居留地の碑(明石小学校)
築地外国人居留地は江戸・東京における文明開化の発祥の地とも言える場所となりました。その象徴的なものが、現在の明石小学校前にあるガス街灯です。高さ3.4mの鋳鉄製の柱は、当時実際に居留地で使用されていた物です。正門前に居留地の歴史を記した碑があります。
カトリック築地教会
築地教会は、明治4年(1871)に鉄砲洲の稲荷橋近くにひらかれた「稲荷橋教会」を前身とし、明治7年に築地居留地(明石町)に移りました。現在の聖堂は、関東大震災によって明治11年創建の旧聖堂が焼失したため、昭和2年(1927)に再建されたもので、教会としては珍しいギリシア神殿パルテノン形式が採用されています。築地居留地の面影を伝える貴重な建物であり、平成11年には、東京都の歴史的建造物として選定された。
立教学院発祥の地(現:聖路加病院)
1874年ウィリアムズ主教は築地の明石町に聖書と英学を教える私塾を数名の生徒で始めた。その後立教学校と称した。これが立教大学の前身である。1818年(大正7年)池袋に移転し現在に至っている。
慶應義塾大学発祥の地
慶応義塾の起源は、安政5年に福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。この地はまた 1771年 中津藩の医師 前野良沢などが オランダ解剖書を初めて読んだ 由緒あるところで, 日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。秋山好古福沢諭吉に傾倒し、自分の子息や親類の子供も入学させたそうです。
アメリカ公使館跡(現:聖路加タワー)
アメリカ公使館は、築地居留地に、明治8年から明治23年の間ありました。最初は、安政6年(1859年)に開設された港区元麻布の善福寺に置かれました。赤坂の現在のアメリカ大使館の地に移転したのは、築地居留地の後のことです。
・東京運上所跡(現:「水炊きの治作」)
江戸幕府は, 慶応3年(1867年)に, 江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居 留地と定め, この地に税関業務等を行う 運上所を設置しました。これが, 東京税関の始まりです。横浜には安政6年年に神奈川運上所(現:神奈川県庁)が設置されました。
・電信創業地跡(東京運上所内)
明治2年9月19日(太陽暦10月23日) 横浜裁判所と 東京築地 運上所内に設けられた 「電信機役所」を結ぶ 約32キロメートルの電信線架設工事が開始され, 同年12月25日に業務を開始した。これが, 我が国における 公衆電気通信の最初である。
中央区立あかつき公園(シーボルト胸像)
・月島の渡し跡
・波止場公園を巡りました。
・「海軍経理学校の碑」
海軍経理学校は明治7年芝に海軍会計学舎が設けられたのが始まりで、同11年、浴恩園跡地(現:築地市場場内)に移り、同40年に経理学校となりました。旧海軍主計科要員の学校で、卒業生は1万人を超えるといわれています。
勝鬨の渡しの碑
明治38年日露戦争:旅順陥落祝勝会に際し、京橋区の有志は新たな渡船場を開設し、戦勝にちなんでここを「かちどきの渡し」と名付けました。この渡しは昭和15年6月、勝鬨橋完成と同時に廃止され、今は石碑が建てられています。
次に、「軍艦操練所跡」を訪ねました。今日の中央卸売市場の地は、安政4年(1857年)幕府が旗本や御家人を対象に、軍艦教授所を開講したところです。ここでは新式の訓練が施され、洋式海軍の伝習がなされました。勝海舟などが指導にあたりました。
・「波除神社(築地市場場外)」
江戸初期に築地周辺の埋立に困難を極めた工事を完成に導いたことから「波除」の尊称を贈られました。同時に一声で万者を威伏させる巨大な獅子頭も数十対奉納され、これを神輿の様に担いで回ったのが現在に続く伝統行事「つきじ獅子祭」で、築地の町々を回る初夏の風物詩として江戸の名残を伝えている。
・「水神神社(旗山の碑)」
現在の築地市場一帯は, 江戸時代に 松平定信が老中退職後に隠棲した「浴恩園」と 呼ばれた別邸があった場所。1872(明治5)年 ここに 海軍省が置かれ, 浴恩園内の築山に海軍卿の旗が掲揚されたため旗山と呼ばれた。築地周辺には海軍大学校・海軍軍医学校・海軍造兵廠・海軍経理学校などの施設があり海軍の町でした。
・「海軍軍医学校の碑・海軍兵学校跡」
秋山真之が入学したころの海軍兵学校は、現在の国立がんセンターの辺りにありました。記念碑は国立がんセンターの駐車場入り口ゲート横にあります。「真之は、海軍に入ることを決意した。−兄さん、海軍兵学寮ちゅうのはどこにあるぞな。というほど、海軍知識にはうとかった。そもそも海軍兵学寮ということすらまちがっている。海軍士官の養成学校がそういうなまえだったのは明治9年までのことで、その後は「海軍兵学校」という名前にかわっている。築地にあった。」坂の上の雲 1巻 (海軍兵学校)―真之は、東大予備門を退学し明治19年1886年海軍兵学校に入学しました。そして、采女橋〜新橋演舞場〜割烹金田中と歩き新橋へ向かいます。
・旧新橋停車場
「♪汽笛一斉新橋をわが汽車は離れたり♪」小学生唱歌でもおなじみのです。明治5年、日本初の鉄道起点駅として誕生した。正岡子規秋山真之もこの東京の玄関口に下り立ち文明開化を実感した場所です。坂の上の雲の始まりを予感させた場所でもあります。
・「日比谷神社」
創建年代は不詳、元は現在の日比谷公園のあたりに鎮座し、日比谷稲荷明神・旅泊〔さば〕稲荷明神と称えられていた。慶長11年(1606)日比谷御門の造営のため、氏子とともに新橋に移転した。神社の日比谷の名を今に残している。通称の鯖稲荷の鯖は、もともと旅泊(さば)の字を当てていた。日比谷にあった頃、各地から訪れる旅人のために神社の社務所を開放し、無病息災の祈願をしたところ、霊験著しかったので旅泊(さば)稲荷と称えられたという。新橋に移って以後、魚の鯖の字が当てられるようになったという。虫歯虫封じの霊験で知られ、鯖断ちをして祈誓すると効験あらたかだそうです。平成21年(2009)7月、境内が環状2号線の用地にかかったため、第一京浜沿いの汐留シオサイト内にある新社地に遷座した。
・「マッカーサー道路」
GHQマッカーサー最高司令官が建設を命じたという伝説がある「マッカーサー道路」虎ノ門〜新橋間1.4kmが平成26年3月29日に開通した。都市計画決定から実に68年もかかった計算である。都心の慢性的な渋滞の解消が期待されるほか、2020年東京オリンピックでは選手村の江東区ベイエリアと各競技場を繋ぐ大動脈となりそうです。
マッカーサー通りにある切腹最中(お土産)
・田村右京太夫屋敷跡
・「青松寺」
文明8年(1476)に太田道灌が開基。赤穂浅野家の江戸の菩提寺泉岳寺は青松寺の末寺。「それまではただの寺なり泉岳寺」という川柳が残る。大正7年に秋山真之の追悼会が開かれ、兄好古が弟の優れた愛国心についての弔辞を述べた寺でもある。
・「愛宕神社
愛宕神社は、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られた神社。愛宕神社のある愛宕山は、この神社の急階段を見事馬で駆け上った、間垣平九郎の出世階段が有名です。また水戸浪士が井伊直弼を討つ桜田門外の変の前に集結した場所であり、さらに勝海舟西郷隆盛が山から江戸の町を見渡し江戸の町を戦火で焼失させてしまうのは忍びないと言い江戸城無血開城へ進んだという場所でもある。
・「虎ノ門ヒルズ
53階建ては都内でも2番目の高さとか。地下部分はマッカーサー通りが貫通しています。戦後すぐ計画され、建築制限だけが掛かったまま放置されていたプロジェクトが、なんと動いたのでした。森ビルが道路脇の森17ビルを撤去し、周辺の土地を地上げし、東京都から環状2号線の地上権を数百億円で買い取って、虎ノ門ヒルズの建設を決断し、完成した。

<11月26日生まれの先人の言葉>
山本権兵衛(第16代・22代内閣総理大臣
 ・東郷は、運の良い男でございますから、しかるに、必ずや勝利致しましょう。
 ・東京を復興するの努力如何は世界列強の環視する所、我が邦(くに)の実力如何を知るの試金石、またここに在り。
 ・功労者は、勲章をやればいいのです。実務につけると、百害を生じます。
●樫尾忠雄(カシオ計算機創業者)
 ・まず第一に、つねにどういう商品をつくり出せば多くの人に喜んでもらえるのかを考えて開発にあたることである。つまり売れる商品、儲かる商品を考える前に、社会への貢献を考えるのである。
 ・企業というものは、あくまでも伸び続けていかねば責任を果たすことはできないし、活性化にもつながらない。伸び続けることが企業責任を果たすことであり、企業存続の条件でもある。

◆名女優 原節子さん死去。
 日本映画界の名女優、原節子さんが今年9月に肺炎のため亡くなっていたことがわかった。95歳だった。東京物語青い山脈の映像。小津安二郎監督の作品には6本出演、1963年小津監督の死をきっかけに表舞台から身を引いた。山田洋次監督は「美しいままに永遠に生きている人です」とコメントしている。


<本の紹介>
・ 俺のイタリアン、俺のフレンチ―ぶっちぎりで勝つ競争優位性のつくり方 (坂本孝著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4785504544/ref=dra_a_rv_lr_hn_xx_P1400_1000?tag=dradisplay0jp-22&ascsubtag=fcb0b47bbc2949b42aa1299e3bc72800_SS