徳川光圀とラーメン。「いざ、真田の聖地へ」(小日向えり著)

◆12月6日は、黄門忌
 水戸徳川家2代藩主、徳川光圀の命日、享年72。「水戸黄門」と称された。諸国から学者を招聘して、『大日本史』の編纂に着手したことで知られる。権中納言唐名から水戸黄門と呼ばれ、光圀逝去の折は狂歌が広まった。「天が下二つの宝つきはてぬ佐渡の金山水戸の黄門」。
 ●徳川光圀http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130711)1628年(寛永5年)、家康の11男・徳川頼房の3男として生れ、1661年(寛文元年)に水戸藩2代藩主に就任。光圀の最大の業績は、日本の歴史をまとめあげた『大日本史』の編纂事業。光圀は家康の孫にあたり官職が権中納言太政官の次官)で、これを唐名で黄門と呼ぶため水戸黄門と称した。1690年(元禄元年)、養子に家督を継がせ西山荘に隠居。1700年(元禄13年)12月6日、73歳の天寿を全うした。『大日本史』は資料が膨大なため、光圀は完成を見ずして世を去る。編纂事業は歴代藩主に引き継がれ、約250年後の明治39年、栗田寛により全397巻をもって完成をするに至る。助さん、格さんには実在のモデルがおります。助さんこと佐々介三郎宗淳は、光圀の命により、湊川の岸に『嗚呼忠臣楠子墓』の石碑を建てたことで知られる。格さんこと安積覚兵衛は、高名な歴史学者
・日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれた。
オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者朱舜水を招聘し、教授を受けている。
鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。
 朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとのことらしい。
 ・水戸藩ラーメン(光圀が食べたとされるラーメンを再現したもの)がこのサイトにあります。
   http://www.geocities.jp/gojiranoyakata/ra_ibaraki.html
 ・皆如院日乗上人の「日乗上人日記」に記されておりますし、横浜のラーメン博物館にはこの水戸黄門が食したであろう日本初のラーメンのレプリカが展示されています。
<本の紹介>
 ・「いざ、真田の聖地へ」(小日向えり著・主婦と生活社
  来年の大河は「真田丸」。“歴ドル”の著者が5年以上かけて訪ね歩いてきた「真田ゆかりの地巡礼」の集大成。自ら撮った写真を約200枚収録。6年間かけて巡った真田の史跡巡りをまとめた1冊。全国の真田関係の史跡がまとまっているガイド本でもある。上田城真田氏本城跡といったゆかりの地を訪ね歩く「上田編」と、全国に点在する名所を紹介する「松代 群馬 和歌山 京都編」、大坂夏の陣が繰り広げられた「大阪編」の3章構成。著者によれば、『武将の中でも「真田一族」がイチ押しなのは「知略にたけたところ。小さな一武将が上杉や北条などに囲まれながらも、自分の土地を守り通した。しびれますね」と止まらない。』そうだ。そして、「苦しいときには、真田家に元気をもらっていたんです。心の中では六文銭の旗を掲げていた』そうだ。まさに、大河ドラマをみる前に一度読んでおきたいものである。
  http://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%96%E3%80%81%E7%9C%9F%E7%94%B0%E3%81%AE%E8%81%96%E5%9C%B0%E3%81%B8-%E5%B0%8F%E6%97%A5%E5%90%91-%E3%81%88%E3%82%8A/dp/4391147882

<12月6日生まれの先人の言葉>
鶴田浩二(俳優)
 ・名もない男たちの思いを伝えたい。
宍戸錠(俳優)
 ・Never Say Die