浅草・羽子板市

◆今日から浅草寺の羽子板市。江戸時代の「歳の市」のなごりでしょうか。羽子板市は、江戸時代の「歳の市」の名残りです。江戸時代は、毎年12月17・18日に正月用品や縁起物を売る店が境内に集まり「歳の市」と呼ばれていた。
 斉藤月岑の「東都歳時記」には次のように書かれている。
 『十七日 今明日、浅草寺年の市
 今日宝前には修法なし。堂前にて大黒天開運の守を出す。当寺境内はいうに及ばず、南は駒形より御蔵前通り、浅草御門まで、西は門跡より下谷車坂町・上野黒門前に至るまで、寸地を漏らさず仮屋を補理し、新年の儲けとて、注連飾りの具、厨房の雑器、破魔矢、手毬、羽子板等の手遊び、その余種々の祝器をならべ、 声は巷にかまびすしく、都鄙の諸人これを求むるを恒例とし。陰晴を嫌わず群集する事、さらに昼夜のわかちなく、大路に  して東西に道を分けかね、縦横に目も配りかたし。また、裏手の方は、山の宿・砂利場に満ちておびただし。この日の吉原の賑わいいうもさらなり)
 そして、以前は12月9日10日の市であったが、観音様の縁日の方が、年の市より、人々が多く集まるので、年の市を、17日18日に変更したと言われている』とも書いている。
 浅草寺の歳の市は、相当の人出で大変混雑したようです。そのため次のような川柳もあります。
  雷も なりつぶされる 市二日
  馬道も 人でふさがる 市二日
  鳩も豆 喰う隙も無き 市二日
 江戸時代に大変盛んだった「歳の市」が、明治以降は、羽子板を主に売る「羽子板市」に変化してきた。「羽子板」は、「羽子板」でつく「おい羽根」が害虫を食べる「トンボ」に似ているため、悪い虫がつかないとか、またそのかたい「豆」(むくろじ)の部分から「魔滅(まめ)」にあてられ魔除けになる、あるいは「マメに暮らせる」などの縁起を担ぎ、江戸後期のころから女子の誕生した家に羽子板を贈る風習ができました。これによって羽子板を正月の縁起物として「歳の市」で扱う店が増えていったからだと伝えられている。

<12月17日生まれの先人の言葉>
貝原益軒(思想家)
 ・知っていてもそれを行動に移さないのであれば知らない者となんらかわりは無い。
●ベートーベン(音楽家
 ・多くの人々に幸せを与えること以上に、崇高で素晴らしいものはない。