自らのエンディングを。

◆本の題名は不確かであるが、百歳まで元気で生きるための本を書店で立ち読み。簡易計算すると、自らの余命チェックが載っていた。どうもあまり長生きしないのかなと不安になる。でも、これから自ら何をしたいのかが確立していないなあと感じる。福沢諭吉の言葉ではないが、「今日も生涯の一日なり。」にあるように、生涯という長く、しかし短い年月の限られた時間を意識しながら、一日一日、その日その日を大切に生きていきたいものである。まずは、20代の○○に戻す、戻れないまでも近づければ、余命も長くなろう。
 でも、それより、いつエンディングを迎えられるよう、日々充実した楽しい日々を送れるように努めていきたい。確かに母や家族のこともあるが、その条件の中で楽して充実した生活を送っていこう。仮に閑古鳥ブログであろうが、日々の私のきろくであり、それを気にしても仕方がない。名無しの権兵衛さんでは仕方があるまい。

<今日の江戸検>
内藤新宿正受院の奪衣婆は「綿のお婆」と呼ばれ、真綿を奉納すると咳止めに霊験ありとされる。理由もなく突然大評判になって信者が集まる現象を流行神というが、この奪衣婆も幕末に流行神化。人気に奢った僧が暴利を貪り、寺社奉行に譴責されたとか。
・正受院の奪衣婆像について
 木造で像高70cm。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄14辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。(新宿区教育委員会掲示より)
・奪衣婆像(別名綿のお婆さん)で有名な正受院願光寺は、幕末まで会津若松公の菩提寺会津藩松平容保の墓があり、また過去帳に「明治七年三月、愛彦霊神、敬彦霊神、松平氏神葬祭二子事」記載が残っており、後にこの二子も会津院内に移されたそうだ。