「神谷バー」

明治13年日本初のバー。浅草一丁目一番地。数々の文豪に愛された。電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと"電気○○○"などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気でした。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度です。大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯十銭のデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみでした。もちろん、今も神谷バーは下町の社交場。仕事帰りの人々が三々五々、なかには若い女性グループも、小さなグラス片手に笑い、喋り、一日の終わりを心ゆくまで楽しんでいます。時の流れを越えた、じつになごやかな光景です。明治・大正・昭和・平成、時代は移っても人の心に生き続けるデンキブラン
●浅草と文学のつながりはひじょうに深く、浅草からは、じつに多くの名作が誕生しています。たとえば永井荷風は、小説「すみだ川」で下町情緒あふれる隅田川界隈を舞台に、美しくも哀しい人間模様を描き、その後昭和の初めには、川端康成が、浅草の最も華やかな時代を「浅草紅団」「浅草の姉妹」「浅草の九官鳥」など数編の小説に収めています。このほか石川啄木萩原朔太郎高見順谷崎潤一郎坂口安吾壇一雄…など、数多くの文学者たちが浅草に心惹かれ、何らかのかたちで浅草にその足跡を残しています。
・昭和三十五年芥川賞を得た三浦哲郎作「忍ぶ川」、このなかにも神谷バーデンキブランが登場します。「忍ぶ川」は青春小説として大きな感動を呼び、映画化もされました。「でもせっかくの休みだから、栃木へいってきた方がよくはないかな」栃木には志乃の父、弟妹たちがいるのである。「ええ。…・でも、せっかくの休みだから、ふだんできないことをしたいんです。やっぱし、浅草へいきたいわ」― 中略 ―「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっとみたような気がするんですの。映画見て、神谷バーへいって、あたしはブドー酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手柄のために乾杯して下さいな。これは「忍ぶ川」の一場面。主人公と料亭「忍ぶ川」で働く志乃の会話です。共に不幸を背負う二人が胸をはずませて初めてのデートをします。もし、志乃の頬がバラ色に染まったとしたら、それは神谷バーのブドー酒のせいだけだったでしょうか。(1880年明治13年)4月初代神谷傅兵衛浅草区花川戸町四番地にて、「みかはや銘酒店」を開業。酒の一杯売りを始める。1881年明治14年)輸入葡萄酒を再生し販売を始める。1882年(明治15年)速成ブランデー(現在のデンキブラン)の製造販売を始める。1912年(明治45年)4月10日店舗の内部を西洋風に改造し屋号を「神谷バー」と改める。1921年(大正10年)神谷ビル(現在も使用している建物)落成。1949年(昭和24年)3月1日株式会社神谷酒場設立。)