「アイデア・気づきマラソン」スタート。目黒行人坂の大火。

◆日々のちょっとしたひらめきや気付きをノートに書くような習慣(「アイデア・気づきマラソン」)を今月15日からスタートさせた。自らの発想力が高められるとよいのだが。

◆明和9年(1772)に起きた「目黒行人坂の大火」(①)の火元となった大円寺。出火原因は熊谷無宿の僧侶・真秀による放火で、死者・行方不明者は18700名以上。真秀を捕縛したのは「鬼平」こと長谷川平蔵宣以の父で、同じく火付盗賊改だった宣雄。
 寺伝によれば、火元の大円寺墓所のある西運上人の前身は、八百屋お七(②)が恋焦がれて放火に走った寺小姓・吉三。西運は火罪(火炙り)となったお七の菩提を弔い、目黒川に石橋を架けるなど、公共事業に力を尽くしたらしい。
①明和の大火とは、明和9年2月29日(1772年4月1日)に江戸で発生した大火災である。明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれている。
「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火である。真秀は火付盗賊改長官である長谷川宣雄長谷川宣以の父親)の配下によって明和9年(1772年)4月頃に捕縛され、同年6月21日(1772年7月21日)に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。
 2月29日(4月1日)13時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、18時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日(4月2日)の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日(4月3日)の10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社神田明神湯島天神東本願寺湯島聖堂も被災した。死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した。
八百屋お七(1668-1683)は、天和3年(1683)3月29日、鈴ヶ森刑場にて八百屋お七が火あぶりの刑に処せられた。お七は以前火事にあって一家がお寺に避難した折り、一人の男と出会い恋をします。やがて一家は再建された家に戻りますが、男のことが忘れられません。その思いがつのって、もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと思い、放火をしたと伝えられている。