東日本大震災から五年。 一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう願う。

◆震災による死者は1万5894人で、今なお2561人が行方不明となっている。震災の津波で753人が犠牲になった名取市閖上地区。一帯を見渡すことのできる日和山では朝早くから鎮魂の祈りを捧げる人の姿が見られた。津波で全壊した岩手県大槌町の旧役場庁舎では30人の職員が出席し追悼式が行われた。この庁舎は震災遺構として保存・解体をめぐり町が二分されている。福島・いわき市の海岸で線香をあげた男性は「この教訓を忘れないことと復興というのが一番かな」などと話した。練習中に被災した羽生結弦選手は「何か心が動くきっかけになればと思って日々頑張っていきます」などと話した。
 宮城・女川町では、震災後の人口減少対策として去年12月に、テナント型の新たな商店街がオープンした。津波の被害を防ぐため約7mかさ上げして整備された。この商店街には町内2つの仮設商店街から移った27の店舗が営業を始めている。女川町は15mの津波に襲われ、人口の1割にあたる872人が犠牲となり約7割の住宅が全半壊するなどの被害を受けた。しかしその後は復興のトップランナーと呼ばれるほど街づくりが順調に進んでいる。商店街の整備は40代以下の若い住民たちがアイディアを出し合い行い、行政が資金を補助する独自の路線が身を結んだ結果になる。震災以降人口が約4割減ったが先月末の時点で初めて歯止めがかかった。
 今日、都内では被災地のことを忘れずにいてもらいたいという願いを込めて、東北3県の新聞社が被災地の現状や、ボランティアの活動報告などが紹介された号外を配った。
 国立劇場での東日本大震災五周年追悼式が行われ、天皇陛下のおことばでは、「震災によって亡くなった人々とその遺族に対し深く哀悼の意を表し、黒い壁のような波が仙台平野を襲うテレビの映像は決して忘れることはできないものだった、このような中で自衛隊・警察・消防・海上保安庁をはじめとする関係者、一般市民が自らの危険をいとわず救助・捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いている、原子力発電所の事故で多くの人が避難生活を余儀なくされた、こうした苦難の中で多数のボランティアが支援活動を行い、160を超える国・地域などが多大な支援にあたったことも忘れることはできない、この5年は皆が協力して困難を乗り越え復興に向けて努力し進展もみられたが、被災地・避難先で今日も多くの人が苦難の生活を続けている、困難の中にいる人々が取り残されることなく一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添うことが大切と思う、自然は時に危険な一面を見せることがある、震災の教訓を生かし国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎより安全な国土が築かれることを希望する」などと述べた。

◆千葉東金の最福寺に伝わる大黒天像。寺伝によれば、東大寺金剛力士像で知られる鎌倉時代の仏師・運慶の作で、2代将軍秀忠が東金御殿へ鷹狩に訪れた際、家康と縁の深かった同寺に奉納。
 <参考>
 本堂へと続く坂道の途中に当山第七世日善上人と、徳川家康公の対談の模様を、再現したブロンズ像がある。家康公が鷹狩の際、休憩に使った「東金御殿」(現県立東金高校敷地)で家康公と会談。その八ヶ月後、「大阪冬の陣」(慶長十九年、一六一四、十一月)の直前にも、駿府城内で家康公に拝えつ。しばし話し合いを行っていたことが「駿府記」(慶長十九年九月)に「二十日、上総國東金西福寺日善上人御目見日蓮宗也」と出ている。また、「台徳院実記」(慶長十九年、九月二十日)にも「総州東金西福寺日善」駿府城にのぼりて拝謁す」とある。このような歴史を後世に残そうと、現住職が発願し、市内出身の日展会員、上野弘道氏(千葉大教授)により製作安置されたものである。「最福寺」は上総十ヶ寺の一つで、家康公から三十石の寺領を受けている「御朱印寺」でもある。