大阪城公園

大阪城公園は、大阪市中央区にある大坂城特別史跡地に所在する広大な都市公園である。敷地内には大阪城ホール、多目的グラウンドである太陽の広場、軟式野球場、野外音楽堂などが設けられている。公園のほぼ中央に聳える大阪城天守閣は展望台と歴史博物館を兼ねた施設であり、天守閣最上階からは遠く生駒山から大阪湾、大阪平野を見渡すことができる。公園内には梅林をはじめ樹木が多く植えられ、花見シーズンには桜や梅の名所となっている。1931年(昭和6年)の天守再建と同時に本丸を含む大阪城公園となった。当初はわずか9.6haで、その他の大部分は大日本帝国陸軍の用地だった。特に北外濠と東外濠の外縁一帯は大阪砲兵工廠の中核施設が置かれていたため、第二次世界大戦中に米軍から集中的な爆撃を受けており、現在でもこの周辺で土木工事を行うと不発弾が発見されることがあるようだ。
大阪城
 1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに敗れ、摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。しかし、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で、大坂城徳川家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。落城後の大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、忠明に課せられた任務は大坂城下の復興であった。1619年(元和5年)に忠明は大和郡山へ移封となり、江戸幕府は大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領(天領)にすると、翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城修築工事が開始された。大坂城修築工事は3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。
 幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かった。城代に加えて、これも譜代大名からなる京橋口・玉造口の大坂定番2名と、山里・中小屋・青屋口・雁木坂の大坂加番4名と、幕府直轄戦力たる大番2組による大坂在番が警備を担当した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。1660年(万治3年)、城内青屋門の土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き。貯蔵中の82tの火薬のほかに、鉛弾約43万発、火縄3万6千本が焼失した。 爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷した。 天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡、家屋約1500棟が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。後に幕府は現存する石造りの焔硝蔵を建造した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失した。明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となった。
 通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、現在、地表に見える大阪城の遺構は江戸時代のもので、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認された。大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。現在は江戸時初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など13棟が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。