要石

<今日の江戸学>
・千葉県の香取神宮本殿は元禄13年(1700) の造営。境内にある「要石」は地震を起こす地下の大鯰を押さえているとされ、茨城の鹿島神宮の要石が頭を、香取神宮の要石が尾を押さえているともいわれる。ちなみに両要石の距離は直線で約13km。
 要石(かなめいし」)は、茨城県鹿嶋市鹿島神宮と千葉県香取市香取神宮にあり、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石である。両神宮(神社)ともに創建は古くて記録ははっきりしないが、鹿島神宮神武天皇元年の紀元前660年の創建とされ、香取神宮神武天皇18年(紀元前643年)と伝えられている。これは神社の総元締めである伊勢神宮垂仁天皇26年(紀元前4年)(内宮)とされており、これより600年以上前である。当時の日本は卑弥呼が3世紀始めであり、大和朝廷の成立が4世紀頃と思われているので、はっきりした記録がないのも当然。また平安時代延喜式によると伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の3社だけが神宮の称号で呼ばれており、これは江戸時代まで続いていた。この両神宮は武道の神様を祀っていることで知られている。鹿島神宮武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)であり、香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。これらの神は日本書紀古事記にでてくる出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷天皇)へ譲るために大変重要な神である。この二神に反対した建御名方神(たけみなかたのかみ)(大国主命の第二王子)は諏訪まで追われて逃げ込みそこで忠誠を誓ったので諏訪神社の神として祀られた。
 この二つ神社に共通した「要石(かなめいし)」についてであるが、この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜くことができないと言われている。鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしています。昔水戸黄門徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれているが、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われている。この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきた。昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれている。このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれてる。この石が有名になったのは江戸時代の安政の大地震(1885年10月)のとき、江戸の下町を中心に町民の4300人の死者を出し1万戸以上の家屋が倒壊したと伝えられていますが、江戸の町中が大騒ぎとなった。この時に地震から家を守るお札が流布した。このお札に鹿島神宮なまずの絵がモチーフに使われたのです。地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話も説得させるものがあったようである。