熊本・大分 地震相次ぐ 17万人余 避難。週末農業。

<今日のニュース>
・熊本・大分 地震相次ぐ 17万人余 避難
 多くの人達が避難所での生活を余儀なくされている。益城町の体育館に避難した人たちは、限られたスペースの中で一夜を明かした。午前0時現在、少なくとも41の市町村で16万5千5百人余りが避難所などに避難しているらしい。大分県内でも午前9時現在、15市町で8400人余りが避難している。由布市の避難所では小学校の教室も避難所として利用されている。布田川断層帯、地下の断層が3.5m動いたと推定。
 熊本県内では大雨警報の解除を受け一部の市町村で避難勧告が解除されたが、雨の影響で土砂災害のおそれがあるなどとして、引き続き多くの地域で避難指示や勧告が出されている。避難指示が出されているのは、南阿蘇村の529人と西原村の約40世帯120人。地震450回以上 激しい揺れ 今後も警戒が必要であろう。14日、そして15日と相次いで地震が発生している。益城町熊本市阿蘇市、そして由比市と異なる震源地で今回の熊本地震は広がりが続いている。地震によるライフラインや交通への影響が続いている。熊本県では広い範囲で断水し、熊本市では全域で断水が続き、給水活動が行われている。熊本地震により大きな被害を受けた熊本城。一番高くなるのは天守閣だが、現在は完全に崩壊していて事務所の方も復旧のめどが立っていない。
・熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年の再建である。現存する宇土櫓などの櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。
 細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年現在で512,300.52平方メートル)。1960年に復元された天守閣も屋根瓦の大半が剥がれ、しゃちほこも落下した。崩れた石垣が散乱するなど城内は危険な状態で、当面は閉園を続ける。 

・被災地での混乱は想像を絶するものであろう。自分に何ができるのか考えていこう。個人的にはこのような状況をみると、高齢者の母を一人住まいの生活はいいのかどうか考えてしまう。

<週末農業>
◆午前中は草取り、そしてトマト苗、そしてさやえんどう、なす、小松菜、とうもろこしの種を蒔く。しかし、一週間での草の成長はすごいものが感じる。じゃがいも、ふき、そして、キャベツ、大根、小松菜などもが目を出してきている。でも、これから暑くなり、そして梅雨を迎えると例年通り野菜の成長をみるのが大変になるでしょう。例年の如くですね。