稲葉正則と箱根神社

芦ノ湖畔にある箱根権現(箱根神社)の鳳輦(ほうれん)(鳳輦とは、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味する)ほかは、同社の社殿造営奉行を務めた小田原藩主で老中の稲葉正則が、寛文7年(1667)に竣工を記念して奉納。正則は、3代将軍家光の乳母で大奥の権力者だった春日局の孫。母の早世で春日局に養育された。
・稲葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代の譜代大名、老中、大政参与。相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成春日局の嫡孫。
 母は早世したため、祖母春日局に養育されていたが、寛永11年(1634年)に父が死去したため家督を相続した。幼少のため大伯父(春日局の兄)にあたる斎藤利宗の補佐を受けた。寛永15年(1638年)に元服、利宗の補佐は終わったが、以後は父方の従兄に当たる堀田正盛が後見人を務めた。寛永10年の大地震後の藩内復興、城下町の整備などを行ない藩の基を築いた。春日局の孫ということもあり幕閣として重用され、明暦3年(1657年)9月28日に老中となり、将軍の名代や代参を経て、翌万治元年7月12日から評定所へ出座、閏12月29日に月番と老中奉書加判の上意を受けて幕閣への参加を認められた。寛文3年(1663年)に1万石加増され、4代将軍徳川家綱文治政治を担うことになった。
箱根神社はこねじんじゃ)は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある神社である。旧社格国幣小社。かつては箱根権現、三所大権現とも称された。『筥根山縁起并序』(建久2年(1191年)、箱根権現別当・行実編纂)によると、古代から箱根山に対する山岳信仰は盛んで、特に神山への信仰は篤く、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていたようである。『吾妻鏡』には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。豊臣秀吉小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建した。長らく別当寺の金剛王院東福寺が箱根権現の中核であったが、明治の神仏分離の際に別当は還俗して神職となり、箱根神社に改称した。

<先人の名言>
●「我々の俳句は、皆粒々辛苦の、正しい人間生活から流れ出る結晶であり、指先からペンをかりてほとばしり出る血汐そのものでなければならぬ」
◆今日4月26日は飯田 蛇笏(いいだ だこつ)に誕生日である。彼は、1885年(明治18年)4月26日 に生まれ、日本の俳人の一人である。数年前に、山梨県立文学館で「没後50年 飯田蛇笏展」が開催された。高浜虚子に師事するが,23歳で郷里山梨県境川村に隠棲(いんせい)し、「土の俳人」を志す。蛇笏を名乗っている。虚子(1874年生れ)の俳壇復帰とともに句作を再開,「ホトトギス」の中心作家となる。俳誌「雲母」を主宰,山間の地にあって格調のたかい作風を展開した。句集に48歳の処女句集「山廬集」、最後の句集「椿花(ちんか)集」など。角川書房が飯田蛇笏賞を創設した。
 「俳句道」を提唱し、「吾人はいやしくも俳句道に生涯を賭する決意の下に遅々たる歩みをつづけてきた。世上文学道の何れにも見出し難いところの唯一つの焦茶色の文学道に」(復刊の辞・雲母)と語っている。「我々の俳句は、皆粒々辛苦の、正しい人間生活から流れ出る結晶であり、指先からペンをかりてほとばしり出る血汐そのものでなければならぬ」(「俳諧道場箴})という文章を読むと、その気概が伝わってくる。蛇笏の4男・竜太は俳人として蛇笏の遺志を継ぐ。虚子は、「先ず第一の特色と認むべきことは以上の小説的といふところにある。」「甲州の山廬に戻ってからの句は測測として人に迫る底のものとなった」と蛇笏の句風を書いている。