いつもの週末ですね。弱点克服は。

◆今日、明日と暑そうである。水撒きもたいへんである。草は成長し、野菜は弱る。まさに、週末農業の弱点である。水をたっぷりまく以外に方法はない。そろそろ蚊も発生してきた。蚊対策も忘れずにしなければならない。

◆田舎そば「かさい」
 中央線某駅にある田舎そば「かさい」。たまに、出張の時に食べる。立ち食いそばであるが、なぜか腰がある。とくに、アジ天もあり、私はアジ天そばが好きである。出張のしか機会がないが、昨日は飲んだ帰りに途中下車して食べてきた。酔っていたが、美味しかった。

◆江戸狂歌師 太田南畝とは
 日本出版クラブ会館から神楽坂通りに下る「地蔵坂」の名は、向かいの光照寺の寺宝「地蔵菩薩」に由来する。あるとき、地蔵坂で遊んでいた子供らの目の前で滑って転んだ無様な姿を見せ「子供らよ笑はば笑へ藁店の、ここはどうしょう光照寺」と頓知と洒落で詠んだのは、当時、江戸随一の人気狂歌大田南畝である。坂上の中御徒町に住む南畝は、地蔵坂・藁店下の老舗相馬屋で原稿用の和紙を仕入れ懇意にしていた。暇さえあれば夕方になると相馬屋を訪れ、店先の火鉢で熱燗にした酒を飲みながら主人源四郎と談笑するのが楽しみであった。
 彼は、江戸後期の寛延2年(1749)牛込中御徒町(新宿区中町36番地)に曾祖父の代からの御徒として生まれた。袋町に隣接するこの一帯には、二代将軍秀忠の生母お愛の方の菩提寺天竜寺」があったが、天和3年(1683)の大火で内藤新宿の隣接地(新宿4丁目)に移転した。4万坪の跡地西側は、幕府の御納戸町、牛込中央通りを挟んで、東側は町域を南北に三分割して、南・中・北の御徒組大縄地となった。現在の新宿区南町、中町、北町である。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。父正智は、わが子を自分と同じ貧しい境遇にさせまいと、学問で身を立てさせようとした。南畝もその道を志して、8歳にして漢字の手ほどきを受け、15歳になると牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。賀邸の門には、山の手の土地柄もあって、旗本や御家人の子弟も多く集まっていた。この中に狂歌名が四谷の唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)、牛込二十騎町の朱楽菅江(あっけらかんこう)と大田南畝の3名が、後に江戸狂歌三大家と呼ばれるようになった。明和四年(1767)南畝一代の傑作「寝惚先生文集」が刊行された。「貧スレバ鈍スル世ヲイカンセン、食ウヤ食ハズノ吾ガ口過、君聞カズヤ地獄ノ沙汰モ金次第、稼グニ追付ク貧乏多シ」。この文集は当時の知識階級だった武士たちの同感を得て歓迎された。弱冠十九歳にして一躍有名人となった南畝は、次々と刊行した洒落本が一大ベストセラーとなって江戸市中に広まっていった。それまでの日本には、雅な和歌が万葉集など貴族という限られた社会の中で優美に繊細で機知に富んだ歌が詠まれてきた。それに対して、肩肘の張らない息抜きのために素朴であるが自分の想いを素直に表現する民衆の歌として詠まれるようになったのが「狂歌」である。南畝は、従来の固定観念を排除し、江戸人の洒落と滑稽、ユーモアと反骨、機知と頓知に富んだ狂歌を詠み、その才能ある最高の文化人として持て囃されていた。その一方で、地道な役人でもあった。また、洒落本ごとに南畝、寝惚先生、山手馬鹿人、牛門外史、四方赤良、晩年の蜀山人など多くのペンネームで文人と旗本の身分を使い分けていた。南畝の作品に「更科の蕎麦はよけれど高稲荷(たかいなり)森(盛り)を眺めて二度とコンコン」。「名にしおう玉屋の花火うちいでて 鍵屋の鍵に開く大川」などがある。

●「吾妻曲狂歌文庫」 山東京伝とは
「あなうなぎ、いづくの山のいもとせを、さかれて後に身をこがすとは」 四方赤良(南畝)  恋仲の二人が無理やりに仲を裂かれて身を焦がし思いが募る。このつらさを裂かれて蒲焼きになる鰻に託して詠んだもの。

 狂歌界には武士が多かったが、近隣町人では、市谷八幡・田町・神楽坂にかけての大名主・島田左内の狂名は、酒上熟寝(さけのうえじくね)、禁酒してから瓢空酒(ひさごやのからざけ)の狂名。また牛込水道町・五軒町の名主渡瀬庄兵衛の俳名は、江戸川にちなみ川鯉、狂名は臍穴主(へそのあなぬし)というだけに狂歌にもすぐれていた。江戸狂歌は、南畝ら戯作者の風刺精神から醸成されたが、封建社会の崩壊と維新後の新聞の台頭で忘れ去られていった。