三浦按針とは

●三浦按針とは
 1600年、三浦按針(ウィリアム・アダムス)はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で東洋を目指し、慶長5 年(1600)豊後国大分県臼杵に漂着しました。徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、家康・秀忠の外交顧問に。相模国(神奈川県)三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられました。また、リーフデ号の積荷の大砲は、関が原の戦いや大坂の陣で活躍したそうです。オランダと英国の貿易船通航許可や平戸への商館設置を仲介した。平戸にも居を構え、平戸英国商館が設置されると商館員として勤務した。英国への帰国はかなわないまま、1620年に死去した。姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人です。屋敷地は現在の日本橋室町1 丁目辺りで、昭和初期まで「按針町」と呼ばれました。今でも「按針通り」が残り、「史蹟三浦按針屋敷跡」の碑があります。
 また、按針と共にリーフデ号で漂着したヤン・ヨーステンも江戸に招かれ、屋敷地近くの「八代洲河岸」が現在の「八重洲」になった。同じリーフデ号で漂着した同僚・ヤン=ヨーステンは中央区八重洲にその名を残すが、安針町の名は昭和初期に惜しくも消滅。