家康の母於大の方。

<江戸学>
中山道小諸宿にある光岳寺は、家康生母・於大(伝通院)の曾孫で小諸城主の松平憲良(のりなが)が、於大の菩提を弔って建立。本堂・楼門などは江戸中期の建築。のちに小諸藩主・牧野家の菩提寺ともなったため、屋根には牧野・徳川・松平の紋が並ぶ。
於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))は、松平広忠正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。家康は天文11年(1542)岡崎城松平広忠尾張刈谷城主水野忠政の娘(於大の方)の間に生まれた。3歳のときに忠政が織田方についたため、今川方の広忠は妻と離縁した。母親から引き離された幼い家康(竹千代)は、8歳で父弘忠は暗殺された。天文18年(1549)人質として駿府へ送られる。駿府では今川義元に奉仕し、元服に際し、主君の一字を与えられて松平元信(通称次郎三郎)を名乗り、今川一族から妻瀬名(築山殿)を迎え、元康と名を改めた。家康は築山殿との間に長男信康と長女亀姫をもうけた。永禄3年(1560)桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれ混乱に乗じて今川氏から独立し岡崎へ帰還した。今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺安楽寺で剃髪して伝通院と号した。永禄4年(1561)には信長と和睦(清州同盟)して勢力拡大を謀るが、それは今川家との絶縁を意味していた。信長に配慮せざるを得ない家康は築山殿との別居に追い込まれた。
 永禄6年(1563)年に義元の一字を捨て元康から家康に改名する。同年に一向宗を中心とした一揆が勃発すると、半年かけて鎮圧した一向宗を禁止する。永禄8年(1565)年には今川勢を東三河から駆逐する。さらに遠江に侵攻して、元亀元年(1570)には浜松城を築き本拠とする。さらに家康は同盟者織田信長との関係に翻弄されることになる。家康の長男信康に信長の娘徳姫を正室に迎えていた。信長は娘の徳姫から夫信康の母築山殿が武田家に内通しているという手紙を受け取った。家康は武田信玄の後継者・勝頼とは依然として敵対関係にあり、内通は裏切り行為に他ならず、家康は苦渋の決断を迫られた。天正7年(1579)、徳川家の分裂を防ぐため、家臣に築山殿の殺害を、信康には切腹を命じた。妻と長男を犠牲にすることで家康は徳川家の安泰を謀ったのである。天正3年(1575)5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を包囲した。長篠城主・奥平定昌のわずか5百の兵が籠城したが落城寸前となる。そこで配下の者が決死的な脱出で、岡崎城の家康、信長の援軍を得た。戦いは5月21日設楽原で連吾川を挟み、織田・紱川軍3万8千と3千挺の鉄砲隊と馬防柵の前に武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返し惨敗した。この長篠の戦いで倒れた両軍の武士達の霊を慰めるための行事で鉄砲隊による火縄銃の演武が長篠城で行われている。
 小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝羽柴秀吉の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。慶長7年(1602年)には、高台院後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示した。同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。菩提寺は各地に建てられた。

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