仙波東照宮

<江戸学>
◆川越の仙波東照宮は、徳川家康の遺骸が久能山東照宮から日光東照宮に改葬される際、家康のブレインだった南光坊天海が喜多院で法要を行なったことから創建。現在の社殿は、寛永の川越大火による焼失後、3代将軍家光の命で川越藩主・堀田正盛が再建。(川越八幡宮HP参照・http://kawagoe-hachimangu.net/toushougu.shtml
仙波東照宮(せんばとうしょうぐう)は、埼玉県川越市小仙波町にある神社(東照宮)。日光・久能山と並ぶ日本三大東照宮の1つ。元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国宝。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。童謡『あんたがたどこさ』発祥の地と言われる。(「仙波東照宮ウィキペディア」より)
・堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与(御側)。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、酒井重澄と並ぶ寵臣として瞬く間に出世していった。寛永3年(1626年)には小姓組の番頭となる。この当時は4000石から5000石級の旗本の任だったが、同年中に相模及び常陸国内にあった計5000石の領地に加えて、上野国内にも新恩5000石を与えられ、譜代大名として諸侯に列する。寛永10年(1633年)3月23日に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)となると、その後に相模・常陸・甲斐にそれぞれ5千石を得て、2万5千石で城主格となる。その後も家光に深く寵愛され、寛永12年(1635年)3月1日に老中に就任し、3万5千石をもって武蔵川越藩主となり、はじめて城主となる。寛永15年(1638年)3月8日、6万5000石を加増されて10万石となり信濃松本藩に転封、老中の実務を免ぜられて家光の御側に回り、中根正盛と共に老中のまま大政参与となり家光を輔佐した。母方の従弟に当たる相模小田原藩稲葉正則の後見も務めたが、家光の死去にともない慶安4年(1651年)4月20日阿部重次と共に殉死した。享年44。
・3 代将軍家光(大猷院)は、慶長9年(1604)父秀忠の嫡男竹千代として江戸城西ノ丸に生まれる。母お江与浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる。歴代将軍の中で次代将軍となる世継ぎを生んだのは秀忠の正室お江与のみであり、正室の子の将軍も初代家康、3代家光、15代慶喜のみである。明智光秀の家臣斉藤利三の娘お福(春日の局)が竹千代の乳母となる。竹千代は生来病弱で無口なため、活発で利発な弟国松を次期将軍に推す声が根強く、母お江は国松を溺愛した。国松との間に世継ぎ争いが生じたため、危機感をもった乳母春日局駿府城に隠居した大御所家康への働きかけで、江戸城にて家康が長幼の序を明確にした。竹千代は次期将軍として元服し、家光を名乗る。元和9年(1623)大御所となった秀忠は西ノ丸に移り、家光に政権を移譲する。だが幕政は二元政治の合議制とした。寛永9年(1632)秀忠が亡くなると、幕政の改革で老中・若年寄・奉行・大目付・参勤交代・鎖国体制などを定め、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。家光は将軍になっても遠乗りや諸大名の屋敷への御成りの外出を好んだ。しかし、日光東照宮の大改修で将軍の権威を誇示していた頃、気鬱の病で伏せるようになる。このため家光の側近である老中酒井忠勝松平信綱重臣が、幕府の諸制度の整備・運営を行い、将軍は極めて象徴的な存在となった。寛永2年(1625)家光は五摂家の一つ鷹司信房の娘孝子を正室に迎える。婚礼の翌年、お江与が亡くなると、唯一の後ろ盾を失った孝子は、女官たちを引き連れ、本丸を出て中之丸(吹上御庭・広芝)に引きこもり、「中之丸御方」呼ばれた。つまり、男色の家光とはすこぶる不仲で江戸城内別居の仮面夫婦となった。以降、摂家から迎えた正室はその家格のみが重要で、将軍家に箔をつけるための存在であった。寛永14年(1637)10月に勃発した島原の乱は、日本の歴史上最大規模の一揆で幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原半島天草諸島の領民に生活が成り立たない過重な年貢の取立に飢饉が襲い、キリシタン迫害や弾圧による天草四朗時貞を総大将とする反乱である。年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して拷問処刑を行なった記録が残されている。事態を重く受止めた幕府は老中松平信綱の総指揮で西国大名編成の討伐軍13万の兵で原城に籠城する3万7千の領民を陸と海から包囲し、寛永15年(1638)2月に原城炎上全滅した。島原藩主の板倉勝家は自らの失政を認めず、この反乱をキリシタンの暴動と主張したが斬首となった。江戸時代に大名が切腹でなく斬首されたのはこの一件のみである。この籠城事件から幕府は一国一城令を発令、歴史ある多くの名城が廃城となった。寛永18年(1641)に鎖国体制を完成させた。男色を好む家光の世継ぎを心配した春日局は大奥の新制度を確立させた。新設された大奥には、家光好みの女中を配して、側室お振の方に長女千代姫を皮切りに、側室お楽の方(宝樹院)に長男家綱(4代将軍)、側室お夏の方(順性院)に三男綱重(甲府藩主)、側室お玉の方に四男綱吉(5代将軍)らの世継ぎが誕生した。慶安4年(1651)4月家光没、享年48歳。家光は東照大権現として祀られた祖父家康を深く尊崇しており、生涯で10回の将軍日光社参を行っている。日光東照宮の大造営を成し遂げた家光は「死後も魂は日光山中に静まり、東照大権現のお傍近くに侍り、仕えまつらん。東照宮を凌ぐ華美な造営であってはならない」と遺言を残し、承応2年(1653)日光東照宮に隣接する輪王寺大猷院を造営した。

<今日のニュース>
熊本地震 2回目の震度7から2か月 “復旧に相当な時間必要”
 熊本地震で死亡した49人のうち40人は2ヶ月前の震度7地震で亡くなった。大規模な土砂災害を受けた南阿蘇村では600棟以上の家屋が全半壊して、今でも約1000人が避難所生活を送っている。
 熊本地震の被害を甚大に受けた熊本城・飯田丸五階櫓の倒壊を防ぐための工事が報道各社に公開された。工事では櫓の下に鉄骨をさし込んで重みを分散させるとのこと。熊本市は来月中には工事を終えて建物の損傷を調べ、修復が可能か判断したいと考えている。熊本城は国の重要文化財に指定されている13棟が地震の全て被害を受け、石垣は50ヶ所が崩落した。今日視察した熊本市文化財保護委員会の委員長は、文化財職員の先輩方の無念さを悼み、乗り越える意志を表明した。
◆北海道で震度6弱 当分同程度の規模の地震十分注意 平成15年の十勝沖地震と余震以来
 今日14時21分ごろに内浦湾を震源とした地震が発生した。函館市では震度6弱地震を観測した。この地震による津波の心配はない。震源の深さは11キロ、マグニチュードは5.3。震度6弱を観測した川汲町は海に面した地区で、特別養護老人ホームでは入居している女性(82)が落下物に頭をぶつけてけがを負ったが、軽傷で施設に戻っているという。臼尻町の南かやべ漁協では天井の板が抜け落ちていた。また被害は墓地や展示している土器などにも及んだ。北海道唯一の国宝である中空土偶には被害はなく余震に備え倉庫に移しているという。北海道で震度6弱以上の揺れを観測したのは平成15年十勝沖地震・余震以来のことである。気象庁は当分の間、同程度の規模の地震に対し注意を呼びかけている。
◆梅雨明け 沖縄地方 平年より7日早く。
 沖縄気象台は、今日、沖縄地方が梅雨明けしたとみられると発表した。平年より7日早く、1週間ほど晴天が続き、真夏日になる予想だという。
◆関東の水がめピンチ…取水制限開始
 群馬県矢木沢ダムでは現在10.4%ほどの貯水率しかないとのこと。利根川水系の8つのダムの合計貯水率も38%と過去最低を記録している。首都圏の1都5県で10%の取水制限を行った。さらにダムの水位が減少してしまえば20%に引き上げる可能性もあるとのことだ。