第8代将軍吉宗

◆第八代将軍吉宗 
 8代将軍吉宗は、徳川御三家紀州藩第2代藩主の徳川光貞の4男に生まれる。初代家康は祖祖父にあたる。父光貞と兄二人の死後、宝永2年(1705)22歳で第5代紀州藩主を継ぎ、宝永地震で疲弊した藩財政立て直した。宝永3年に伏見宮家の真宮理子を正室に迎えるが宝永7年(1710)に死別した。吉宗はこの後二度と正室を迎えることはなかったが、正徳元年(1712)(側室・須磨(深徳院)との間に長男・長福丸(徳川家重)、正徳5年(1716)側室・吉牟(本徳院)との間に二男・小次郎(田安宗武)が生まれている。
 7代家継の死により秀忠の血をひく徳川宗家の男系男子が途絶え、6代家宣の正室・天英院の推挙により御三家筆頭の尾張家を抑えて、初の養子として徳川宗家を相続し、享保元年(1716)江戸幕府の第8代将軍に就任した。吉宗は家宣時代からの正徳の治を改め、水野忠之を老中に任命して幕政改革を始める。公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置、江戸町火消、小石川養生所、町奉行大岡忠相の登用など江戸三大改革のひとつ享保の改革を推し進めた。長男家重に将軍を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことで米将軍(八十八将軍)と呼ばれていた。これらの幕府改革で破綻財政の復興を成し遂げたことで「徳川中興の名主」と呼ばれる名君として名高い。
・名言
 「困った時にうつ向く者は役に立たぬ。困った時あお向く者が役に立つ」
 「すべての人に上にたつ時は、愚なるも智あるさまに見え、下にいる者は、智あるものも愚にみゆるものなり。 」
 まさに、吉宗は「堅い人」という意味での堅人であった。保守主義を通し、やや衰書けた幕府の運命を持ち直した人でもある。窮地に立ったとき、上 を向き、前を見る人こそ、師とし、友とし、部下ととすべきであると考えていた。。

<今日のニュース>
東京五輪公式グッズ発売 都庁には早速長蛇の列
 東京都庁東京五輪公式グッズで「組市松紋」エンブレムグッズなどが発売されたことを伝えた。エンブレムのついたポロシャツが3000円、キーホルダーは800円(税別)になっているとのこと。都庁には展望室にコーナーも設けられ、さっそく観光客らがグッズを買い求めている。組市松紋エンブレムグッズのポロシャツなど7種類の商品が揃えられている。公式グッズはきょうから全国のスポーツ用品店組織委員会オンラインショップでも販売。