第4 代将軍家綱

◆第4代将軍家綱
家綱は、寛永18年(1641)3代将軍家光の長男として江戸城本丸に生まれる。母は側室お楽の方(宝樹院)で、家光(38歳)は、弟忠長との世継争いもあり、嫡男竹千代(家綱)の誕生間もなく世継ぎと定めた。慶安4年(1651)家綱(11歳)は、父家光(48歳)が亡くなると、江戸城において将軍宣下を受け、4代将軍に就任した。この幼年での就任が将軍世襲制の盤石さを諸大名に知らしめた。だが家光の死後の空白を突くように由井正雪や丸橋忠弥らによる討幕未遂事件「慶安の役」が起き政情不安に見舞われた。しかし、家光時代からの大老酒井忠勝、老中松平信綱、叔父保科正之幕臣がこの危機的難局を乗り切った。これまでの武力に頼った武断政治から文治政治へ幕府の職制も完成させ、29年に及ぶ歴代3位の長期安定政権を堅持した。
将軍家綱は儀式や典礼の長に甘んじ、政務を大老酒井忠清はじめとする老中らに任せていた。しかし、幕閣が勝手に政策を施行しているのではなく、これは将軍の意志命令である上意であるという形式をとることによって諸大名の理解を得ていた。明暦3年(1657)の大火では、江戸城天守や本丸御殿をはじめ城下の大半を焼失し10万人以上が焼死した。
将軍は自ら「左様せい」と決裁していたため「左様せい様」と揶揄されていた。以降は幕府重臣の発言力を強めた官僚政治の道を歩むことになる。家綱は生まれつき病弱で世継ぎがないため、家光の4男館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後継とした。その直後の延宝8年(1680)5月、家綱は40歳で死去し、将軍家直系の子が将軍職を世襲する形は崩れ去った。