伊能忠敬

◆下総佐原で酒造業と町名主を務め、隠居後は江戸深川を拠点に全国行脚した測量家・伊能忠敬。婿養子だった忠敬の父は妻の死後、自分の実家に戻る。現九十九里町の母の実家に残された忠敬は、この生誕地で苦難の少年時代を送ったのち、伊能家の養子に。
伊能忠敬
 千葉県九十九里町に生まれ、1762年、17歳の時に佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。忠敬が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状況だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直す(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかった。1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増える。
 この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。折しも天文方は改暦作業の最中。忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき 1764-1804/当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立(ごうりゅう 1734-1799/当時61歳)の一門のツー・トップだ。忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになる。至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。
 1797年(52歳)、高橋至時間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。だが、当時は幕府の許可が無ければ蝦夷地には行けない…。そこで至時が考えた名目が“地図制作”だった(つまり暦制作が本来の目的で、地図制作は移動の自由を得るための口実だった)。この頃、蝦夷地では根室にロシア特使が上陸して通商を要求し、ロシア人の択捉島上陸事件も起こっており、国防のために正確な地図が必要だった。至時・忠敬の師弟はそこを突き、結果的に幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す(ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。伊能家の3万両=約30億円とも言われる資産が役立った)。
 1800年(寛政12)に、ほとんど独力で蝦夷地(えぞち)を測量しました。忠敬の測量事業と作成した地図は幕府の注目するところとなり、その後幕府の命を受けて、亡くなるまでのほとんどの期間を全国の測量に捧げた。11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった。はじめ幕府は忠敬の実力を信用していなかった。しかし蝦夷地のあまりにも正確で立派な地図を作り上げたため、幕府は驚きそして忠敬に全国測量という任務を与えた。当初幕府の補助を受ける形であったが、測量を重ねるに従い、その実績が認められて1805年の第5次測量からは幕府直轄の測量隊となったのである。そのため、第5次測量以降とそれ以前とでは地域での扱いに大きな差が見られる。
 第5回測量では東海道・近畿・中国の沿岸を、第6回測量では四国・大和路を、第7回と第8回の測量では九州・中国・中部地方の内陸部を、それぞれ精力的に測量。日本全国を歩いて、本邦初の実測地図である「日本沿海與地全図」を制作し続けるも、完成を見ずに他界。忠敬の死から3年後の1821年、弟子らの手により「大日本沿海與地全図」が完成し、幕府に献上される。
                                (出典「伊能忠敬の生涯」http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/tadataka.html
伊能忠敬記念館http://www.sawara.com/tadataka/)(http://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/)