談洲楼烏亭焉馬、そして市川團十郎。

<江戸学>
◆「急がずば濡れまし物と夕立の あとより晴るる堪忍の虹」。向島牛嶋神社にある、江戸落語中興の祖・談洲楼烏亭焉馬(だんしゅうろううていえんば)の狂歌碑。堅川(たてかわ)岸に住んだ大工の棟梁で、立川流の祖。談洲楼は市川「団十郎」のもじり。
・烏亭 焉馬(うてい えんば、寛保3年(1743年)- 文政5年6月2日(1822年7月19日))は、江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖とも言われる。本名は中村英祝。和泉屋和助の通称があったが、住まいの相生町の堅川をもじった「立川焉馬」や、親交のあった市川団十郎をもじって「立川談洲楼」または「談洲楼焉馬」と名乗ることもあった。また、狂歌においては、「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」の号を用いることもあった。本所の相生町の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務める。俳諧狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きで、自ら浄瑠璃を作るほどであった。4代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」「太平楽巻物」「碁太平記白石噺」などがある。天明6年(1786年)に町大工の棟梁になり、向島の料亭で「噺の会」を主宰したことから、落語に関わりを持つようになる。「噺の会」は素人が新作の落とし噺をする会で、そこから自作自演の噺が流行し、様々な落語家が登場することになり、衰退しつつあった江戸落語の再興に至る。また、団十郎を後援する三升連(みますれん)を結成したが、「噺の会」とともに口演の普及につながった。門弟には朝寝房夢羅久、初代立川談笑、談語楼銀馬、2代目朝寝坊むらく、初代三遊亭圓生、2代目焉馬等がいる。
・市川 團十觔(いちかわ だんじゅうろう、新字体団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。五代目 市川團十郎(ごだいめ いちかわ だんじゅうろう、寛保元年〈1741年〉 - 文化3年10月30日〈1806年12月9日〉)とは、江戸の歌舞伎役者。屋号は成田屋、俳名は梅童・男女川(おながわ)。細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらずに懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた。文才もあり松尾芭蕉の作風を慕って俳諧をよくし、また花道のつらねの名で狂歌を詠み、立川焉馬、大田蜀山人ら当時一流の文化人との交流を持ち、堺町連という狂歌師のグループを形成した。『狂歌友なし猿』、『市川白猿集』など著書も多数ある。18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優であった。