最後の一週間

◆気取っても仕方がない。がむしゃらに勉強をしよう。

<今日の江戸学>
安政6年(1859)10月27日、獄中にあった長州藩吉田松陰が伝馬町で斬死。30歳。罪名は老中間部詮勝(あきかつ)の暗殺未遂。寺社・勘定・町方の三奉行と大目付・目付で構成する五手掛の採決では遠島と決まっていましたが、大老井伊直弼が斬首を命じ、即時処刑されたもの。安政の大獄はすでにこのときまでに8月27日、10月7日と2度断行されており、死罪・切腹など刑死者は計8名、隠居・慎・免職などの処分は100名を超えていました。
吉田松陰
「凡そ人一日この世にあれば、一日の食を喰らい、一日の衣を着、一日の家に居る。なんぞ一日の学問、一日の事業を励まざらんや。」
・幕末の勤王家・思想家・教育者。長州生。江戸に出て、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに学ぶ。安政元年下田の米艦に搭乗を計り失敗、投獄ののち生家に幽閉されるが、ここで松下村塾を開く。討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により獄中で刑死した。安政6年(1859)歿、享年30。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」が有名な辞世の句だ。
・松蔭は日本中を歩き当代の一流の人物に会って学んだ。長崎、平戸、北九州各地、東北諸国。東北では藩の通行証の発行を待ちきれず、脱藩するまでしている。
・松陰の松下村塾で学んだ人物たちは、久坂玄瑞(1840-64年)、高杉晋作(1839-67年)、木戸孝充(1833-77年)、前原一誠(1834-76年)、伊藤博文(1841-1909年)、山県有朋(1838-1922年)、品川弥二郎(1843−1900年)、山田顕義(1844-1892年)など。わずか2年でこういう人物を指導し、感銘を与え、発憤を促したことは驚くほかはない。教育というものの力を感じさせる。
・「凡そ生まれて人たらば宜しく禽獣に異なる所以を知るべし」と言い、学問を「飛耳長目」のへ道と考えた松陰は、「読書しつつ、要点を一々抄録する」という勉強法で、平戸では80冊、長崎では26冊を読んだ。そして獄中にあっても経学と史学に没頭し1年2ヶ月で492冊を読破している。松陰は様々の論者の主張同士の関係を自分の頭で考え抜き、その中から独自の思想の体系を築いていった。その松陰の勉強法は、「読書しつつ、要点を一一抄録する」ことであった。