久しぶりの週末

◆今日は久しぶりの週末である。今週は少し疲れ気味かな?でも、午前中資料整理を行い、午後から病院へ見舞いに行く。夕飯にカレーライスを作ってみました。久しぶりの料理ですね。

<今日の江戸学>
徳川秀忠(台徳院・徳川家康の三男)
 二代将軍秀忠は、天正7年(1579)家康の三男に浜松城で生まれる。母は西郷局です。母の出自については戸塚忠春の娘とも蓑笠之助の娘とも言われていますが、叔父の西郷清員の養女となって家康に仕えたと考えられています。秀忠とすぐ下の弟忠吉の母が西郷局でしたが、西郷局は天正17年に28歳でなくなりました。幼名長松・竹千代。12歳の時豊臣秀吉より一字をもらい秀忠と名乗る。戦国武将は武勇に優れ、気骨ある性格をわが子に望むが、秀忠は幼少期からもの静かで父家康の教えに従順に従うものであった。「何事も大御所様の仰せのままに」で一貫して偉大な父を律儀に立て、その主体性のなさに泥人形と揶揄されることもあった。秀忠は関ヶ原の合戦で3万8千の大軍勢を率いて寄り道、2千人が籠城する上田城攻めで敗戦。関ヶ原の戦いに間に合わず家康から激怒され、戦国武将としては影の薄い存在であった。慶長19年(1614)大阪冬の陣では、汚名返上とばかりに江戸から強行軍を続け、伏見城に着くと秀忠の軍勢は疲労困憊で戦どころではなかった。またもや家康の逆鱗に触れたのである。慶長10年(1605)4月に秀忠は征夷大将軍に就任、父家康は駿府で大御所として隠居する。秀忠は徳川家直轄地と譜代大名を統治し、駿府城の家康は外様大名の接渉を担当する二元政治体制をとった。
 しかし、家康が亡くなると豹変、家康が存命時に構想していた改易転封による大名統制、キリスト教弾圧、貿易統制を強化するなど、幕府の地盤を固めた二代目としての功績は大きい。正室お江与の方は大変嫉妬深い性格で、恐妻家の秀忠は正式な側室を置かなかった。お江は念願の嫡男・竹千代(家光)、次男・国松(忠長)を授かる。だが、秀忠はお静の方との間に思いがけず男児・幸松(保科正之)を授かるが、お江の逆鱗に触れてはならぬと、認知せず密かに武田家の家臣筋である譜代大名・高遠藩保科正光の実子とした。親子の対面が叶ったのはお江与の死後である。秀忠には二代将軍の座を争った福井75万石を領する異母兄・結城秀康がいた。秀康の死去により嫡男忠直が跡を継いでいたが、江戸への参勤を怠るなど精神疾患が噂され、家臣団が恐慌状態になる所業を黙殺できず改易とした。この頃、家光に将軍職を譲るための上洛の日が迫っており、徳川家内部の不安を抱えた忠直の改易に踏み切ったのである。
 秀忠は元和9年(1623)家光に将軍職を譲るが、律儀に父家康に倣って大御所となり実権は手放さず、西ノ丸対本丸の二元政治を行った。寛永8年には溺愛していた次男忠長の領地を召し上げ蟄居を命じる。この頃から秀忠は体調を崩し伏せるようになり、翌寛永9年(1632)1月24日死去。享年54歳。
 父:徳川家康 母:(側室)宝台院(西郷局) 正室:小姫・お江 側室:お静 在位:18年3ヶ月(1605〜23) 徳川宗家 享年:54歳 墓所:芝増上寺
・徳川家霊廟・芝増上寺御霊屋
増上寺は関東での正統念仏道場として、明徳4年(1393)に江戸貝塚紀尾井町)に創建した。家康の入府を受け江戸城拡張とともに増上寺は慶長3年(1598)家康によって芝へ移された。徳川家の菩提寺として、江戸城北東の鬼門である上野忍岡に天台宗寛永寺を、裏鬼門の南西の芝に浄土宗増上寺をそれぞれ対角線上に配置した。芝増上寺には2代秀忠(台徳院)、6代家宣(文昭院)、7代家継(有章院)、9代家重(惇徳院)、12代家慶(慎徳院)、14代家茂(昭徳院)の六代将軍。崇源院、皇女和宮、天英院、広大院、天親院の5名の正室、家宣の父綱重(清揚院)、綱吉の生母(桂昌院)、家宣の側室(月光院)、家斉の側室(契真院)、家慶の側室(見光院・殊妙院)、その他将軍ゆかりの35名の墓所である。
 増上寺本堂を中心に歴代将軍の御霊を祀るために造営された墓所・本殿・拝殿が配置されている。その建造物は当時の最高の技術が駆使され、日光東照宮に劣らぬ厳粛で壮麗な霊廟は、いずれも昭和5年(1930)国宝に指定され、東京で有数の観光寺院であった。しかし、昭和20年(1945)3月10日、北御霊屋が被災、5月25日には南御霊屋が被災、二度にわたる東京大空襲で壮麗な霊廟は灰塵と化した。台徳院霊廟は、寛永9年(1632)二代将軍秀忠の墓所として、三代将軍家光が増上寺境内の南側に造営した壮大な建築群である。昭和5年(1930)国宝に指定されたが、昭和20年(1945)5月の東京大空襲で南側28棟が焼失した。

◆明治31(1898)年11月12日、ジョン万次郎(http://www.johnmung.info/john_syougai.htm)こと中浜万次郎が亡くなりました。71歳。文政10年(1827)生まれ。15歳の時、土佐宇佐港から出漁して遭難。米国の捕鯨船に助けられ、同国で船長の好意により教育を受けました。嘉永4年に帰国後、幕臣となり、通訳として咸臨丸で再渡米しました。維新後は英語教師として働き、日本における英語教育の先駆者的存在となりました。

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<今日の小池劇場>
◆小池塾に猪瀬氏 登場 三宅島でクライミング体験。
 東京都の小池知事が開いた政経塾「希望の塾」の2回目の講義が都内で行われ、講師として猪瀬直樹東京都知事が登壇した。一方、小池知事は東京オリンピックパラリンピックの旗が各地を巡るフラッグツアーのイベントに参加するため、三宅島を訪った。さらに知事は、東京オリンピックの追加種目に決まったスポーツクライミングの施設も訪問し、実際にクライミングを体験して笑顔を見せていた。