徳川家光

<今日の江戸学>
徳川家光(大猷院・徳川秀忠の次男)
 第3代将軍家光は、慶長9年(1604)父秀忠の嫡男竹千代として江戸城西ノ丸に生まれる。母お江与浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる。 家光が誕生したのは、慶長9年(1604)7月17日です。秀忠の次男として生まれました。秀忠には、慶長6年に長丸が生まれていましたが、誕生後間もなく早世していたため、家光は嫡男として扱われ、家康と同じ幼名竹千代を与えられました。ところで、家光誕生の前年の慶長8年2月12日に祖父の家康は征夷大将軍となっていました。家光が「生まれながらの将軍」といわれる由縁です。歴代将軍の中で次代将軍となる世継ぎを生んだのは秀忠の正室お江与のみであり、正室の子の将軍も初代家康、3代家光、15代慶喜のみである。明智光秀の家臣斉藤利三の娘お福(春日の局)が竹千代の乳母となる。竹千代は生来病弱で無口なため、活発で利発な弟国松を次期将軍に推す声が根強く、母お江は国松を溺愛した。国松との間に世継ぎ争いが生じたため、危機感をもった乳母春日局駿府城に隠居した大御所家康への働きかけで、江戸城にて家康が長幼の序を明確にした。竹千代は次期将軍として元服し、家光を名乗る。家光は若い頃、小姓の酒井重澄を寵愛していました。そこで、毎夜のように城を抜け出しては重澄の元に通っていました。これを心配したお守り役の酒井忠勝がひそかに尾行して警護していました。ある晩家光は草履が温かいことに気が付きました。酒井重澄に聞くと知らないと答えました。そこで誰だろうと気を配っていると、酒井忠勝が草履を懐に入れて温め、しかも自分の身を案じて尾行していたことがわかりました。これを知った家光は、酒井忠勝の諫言もあってようやく外出をとりやめたと言います。
 家光は長ずるにつれ、余は生まれながらの将軍であり、諸大名は家臣であるという自覚の振る舞いが目立つようになる。元和9年(1623)大御所となった秀忠は西ノ丸に移り、家光に政権を移譲する。だが幕政は二元政治の合議制とした。寛永9年(1632)秀忠が亡くなると、まず、5月24日に、家光は外様大名伊達政宗、前田利常、島津家久、上杉定勝、佐竹義宣江戸城に呼んで肥後熊本藩52万石の加藤忠広の改易を告げました。この時に、家光は加藤忠広の改易の理由を説明し、「御代始(みよはじめ)の御法度」であるから厳しく処罰することを宣言しました。加藤忠広の改易は6月1日にあらためて江戸城に登城した諸大名にも老中から伝えられ、国許にいた大名には老中の奉書で知らせられました。加藤忠広は、加藤清正の三男(長男,次男は早世)で、慶長16年(1611)に清正が急死したために、11歳の幼少で肥後国熊本藩を継いでいました。忠広は、幼少でかつ父の清正ほど賢くはなかったため、重臣たちが相争う事態が生じ藩政が混乱しました。寛永9年(1632)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺稲葉正勝から改易の沙汰があり、出羽庄内藩酒井忠勝にお預けとなり、子供の光広は飛騨の金森重頼に預けられました。改易の公式の理由は、忠広の嫡男の光広が不行届きのことを書き回したこと、忠広が江戸で生まれた子供とその母親を無断で国許に行かせたということでした。実は加藤忠広の改易は、将軍家光の日光社参のおりに、老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を計画するという内容の密書を、忠広の子供光広が発したとされることに基づくというもので、秀忠死去後の大名の動向をうかがうために企てられた可能性がある事件とも言われています。豊臣恩顧の大大名だった加藤家の改易は、秀忠の跡を継いだ家光の存在と力を見せつけるに十分な効果がありました。この加藤忠広の改易を機会に、譜代大名が大幅に九州に進出しました。加藤氏の跡に、豊前小倉の細川忠利が14万石の加増を受けて54万石で移りました。細川氏の跡には、播磨明石の小笠原忠真が15万石で入りました。豊前中津には播磨龍野の小笠原長次、豊後杵築藩は、忠真の弟忠知が新たに大名に取り立てられました。豊前竜王には、摂津三田から松平重長が入りました。加藤氏改易の前には、豊後日田石川忠総だけでした。それが改易後は大きく増えたことになりました。
 加藤忠広の改易直後の寛永9年10月20日、徳川忠長の領知没収と高崎への逼塞が発表されました。忠長は、家康の死後元和2年(1616)に甲斐一国を与えられ、寛永元年(1624)には駿府城を与えられ駿河遠江で55万石を領しました。しかし、秀忠の晩年になって忠長の行動は常軌を逸し始めました。そのため、寛永8年(1631)に秀忠は忠長の蟄居を命じました。秀忠の容態が悪化すると忠長は、金地院崇伝を通じて幕府の年寄に秀忠へのお見舞いと自分の赦免を願いました。しかし、秀忠も家光もそれを許しませんでした。そして、家光は、秀忠の死去(正月24日)後まもまくに忠長を改易しました。これは秀忠が家康死去直後に忠輝を改易したのと同じです。そして、忠長は翌年の寛永10年12月6日に幽閉先の高崎で自害して果てました。この時に使者にたったのが阿部重次です。阿部重次のこの時使者にたったことを理由として、慶安4年に家光がなくなった際に殉死しました。加藤忠広と徳川忠長の改易は、秀忠死去後政権を掌握した家光が、大名に対して断固たる姿勢で臨むこと宣言したものである。
 さらに、寛永12年(1635)6月21日に改定された武家諸法度江戸城林羅山から発表されました。慶長20年にだされた武家諸法度(慶長法度)の改定版「寛永法度」は、「慶長法度」の大改定となりました。寛永法度は全文かなもじり文に書き換えられるとともに、慶長法度13ヶ条のうち3ヶ条を削除し、9ヶ条を改定し、さらに9ヶ条を追加しました。削除されたのは、群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)を禁じた第2条、法度に背いた犯罪者隠匿を禁じた第3条。他国者を領内に置くことを禁じた第5条でした。
 寛永法度の各条項の内容は次のような内容です。
 第1条は、慶長法度そのままです。「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事」
 第2条 参勤交代の制度化。「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。」
 第3条 城郭の修復手続きの明確化
 第4条 江戸やいずれの国において不測の事態が起こっても在国の大名はそこを動いてはならない。
 第5条 刑罰が行われる場所には担当者以外は出向いてはならない。
 第6条 新儀の企てや徒党の禁止
 第7条 諸国の藩主・領主の私闘の禁止
 第8条 「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭」の私的結婚の禁止
 第9条 倹約の実施
 第10条 衣装の規制
 第11条 乗輿(じょうよ)の制限
「乗輿ハ、一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。」
 第12条 反逆者・殺害人の領外追放
 第13条 幕府に人質を出している大名の家臣を追放・死刑にする際には、幕府に届け出ること。
 第14条 元和法度の「国主は政務の器用を撰ぶべきこと」の条項が改正され、領国の民政が大切とされた。
「知行所務清廉ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊セシムベカラザル事」
 第15条 道橋の維持管理
 第16条 私的な関所と新規の津留(港へ物資を留め置くこと)の禁止
 第17条 500石以上の大船の禁止
 第18条 寺社に与えられた領地を取り上げることの禁止
 寛永法度は、慶長法度の改定ですが、重要な点が二つあります。一つは参勤交代制度の制定です。寛永法度の第2条で参勤交代が定められました。  これ以前にも大名の参勤は行われていましたが、在府の期間や交代時期は決まっていませんでした。 この寛永法度の定めにより、薩摩島津家や肥後細川家など61家がこの年在府、加賀前田家、陸奥伊達家など38家が帰国ということになりました。この時、参勤交代が命じられたのは外様大名だけですが、寛永19年(1642)には譜代大名も参勤交代を行うようになりました。
 次に注目すべき点は大名身分の確定です。江戸時代は、大名は1万石以上、1万石未満は旗本と言われています。しかし、江戸時代の初めは5万石以上が大名とされていたようでもあります。大名が1万石以上という基準が最初に登場するのが老中の職務を定めた法度だそうですが、寛永法度の2条で私的結婚の禁止の対象を「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭」とし、第11条で乗輿の資格者を「一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上」としました。そして12月に旗本を対象とした「諸士法度」が出されたことにより1万石以上が大名、1万石未満が旗本とする大名・旗本の身分が確定しました。
 こうした幕政の改革で老中・若年寄・奉行・大目付・参勤交代・鎖国体制などを定め、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。家光は将軍になっても遠乗りや諸大名の屋敷への御成りの外出を好んだ。しかし、日光東照宮の大改修で将軍の権威を誇示していた頃、気鬱の病で伏せるようになる。このため家光の側近である老中酒井忠勝松平信綱重臣が、幕府の諸制度の整備・運営を行い、将軍は極めて象徴的な存在となった。
 寛永2年(1625)家光は五摂家の一つ鷹司信房の娘孝子を正室に迎える。婚礼の翌年、お江与が亡くなると、唯一の後ろ盾を失った孝子は、女官たちを引き連れ、本丸を出て中之丸(吹上御庭・広芝)に引きこもり、「中之丸御方」呼ばれた。つまり、男色の家光とはすこぶる不仲で江戸城内別居の仮面夫婦となった。以降、摂家から迎えた正室はその家格のみが重要で、将軍家に箔をつけるための存在であった。
 寛永14年(1637)10月に勃発した島原の乱は、日本の歴史上最大規模の一揆で幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原半島天草諸島の領民に生活が成り立たない過重な年貢の取立に飢饉が襲い、キリシタン迫害や弾圧による天草四朗時貞を総大将とする反乱である。年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して拷問処刑を行なった記録が残されている。事態を重く受止めた幕府は老中松平信綱の総指揮で西国大名編成の討伐軍13万の兵で原城に籠城する3万7千の領民を陸と海から包囲し、寛永15年(1638)2月に原城炎上全滅した。島原藩主の板倉勝家は自らの失政を認めず、この反乱をキリシタンの暴動と主張したが斬首となった。江戸時代に大名が切腹でなく斬首されたのはこの一件のみである。この籠城事件から幕府は一国一城令を発令、歴史ある多くの名城が廃城となった。寛永18年(1641)に鎖国体制を完成させた。
 男色を好む家光の世継ぎを心配した春日局は大奥の新制度を確立させた。新設された大奥には、家光好みの女中を配して、側室お振の方に長女千代姫を皮切りに、側室お楽の方(宝樹院)に長男家綱(4代将軍)、側室お夏の方(順性院)に三男綱重(甲府藩主)、側室お玉の方に四男綱吉(5代将軍)らの世継ぎが誕生した。慶安4年(1651)4月家光没、享年48歳。家光は東照大権現として祀られた祖父家康を深く尊崇しており、生涯で10回の将軍日光社参を行っている。
 日光東照宮の大造営を成し遂げた家光は「死後も魂は日光山中に静まり、東照大権現のお傍近くに侍り、仕えまつらん。東照宮を凌ぐ華美な造営であってはならない」と遺言を残し、承応2年(1653)日光東照宮に隣接する輪王寺大猷院を造営した。

◆将軍チェックテスト
1. 秀忠の娘珠姫は前田利常に嫁した。
2.江戸城天守が初めてできた時の将軍は秀忠である。
3.家光は次男であるが幼名は竹千代である。
4. 家康の肖像画のなかには、家光の夢のなかにでてきた家康を描かせた画が多い。
5. 家光の正室孝子の墓所は伝通院である。