坂本 龍馬

<今日の江戸学>
◆坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある。
 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。大政奉還成立の1ヶ月後、慶應3年(1867)11月15日午後9時ごろ、京都の近江屋で土佐藩海援隊隊長の坂本龍馬、陸援隊の中岡慎太郎が何者かに襲撃された。二人が母屋の2階で話し込んでいたところを、7名ほどの刺客が乱入、斬りかかったとのこと。龍馬は頭と背中を斬られ即死。後頭部を斬られた中岡も2日後死亡した。龍馬は暗殺を避けるために先月近江屋に移ってきたばかり。龍馬、33歳の生涯を閉じた。(坂本龍馬とはhttp://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130103
◆少年時代は劣等性、勝海舟と出会い開眼した坂本龍馬について
 坂本龍馬土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中海援隊」の結成、「薩長連合」の斡旋、「大政奉還」の成立に尽力するなど、志士として目覚しい活躍をしたといわれる。しかし、龍馬は生前より、むしろ死後に有名になった人物だ。とりわけ司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』で、新たなヒーロー、龍馬像がつくり上げられたようである。
 龍馬の少年時代は、あまり芳しいものではない。12歳のとき、小高坂の楠山塾で学ぶが、「泣き虫」と呼ばれ、「寝小便たれ」とからかわれて、遂に抜刀騒ぎまで引き起こし、そのために退塾している。そんな少年龍馬を一所懸命に教え導いたのが、姉の乙女だった。この姉は世にありふれた女性とは異なり、「お仁王様」と呼ばれたほどの女で、学問より武芸のほうが好きだった。龍馬はこの姉を家庭教師に、世間一般の少年が学ぶ課程を終えたのだ。龍馬が曲がりなりにも自信を持ってきたのは、学問や知識ではなく、剣道だった。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、彼はここで並ぶ者なき剣士として成長した。しかし、所詮は田舎でのものだ。そこで、1853年(嘉永6年)剣術修行のため江戸へ出て、北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟、「小千葉」といわれた千葉定吉の道場(現在の東京都千代田区)に入門した。17歳のときのことだ。佐久間象山の私塾にも通い、砲術を学んでいる。この年は、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、世情が騒然としてきた時期でもあった。
 1854年安政元年)、龍馬は高知に帰郷。画家で、学者としても知られていた河田小龍(しょうりょう)を訪ねた。小龍は1852年(嘉永5年)ころ高知へ帰ってきた中浜万次郎(ジョン万次郎)から米国の事情など世界認識の眼を大きく開いた人物だった。このとき龍馬は小龍から開国必然説と、後の海援隊につながるビジョンを説かれ、構想を膨らませていったのだ。1856年(安政3年)龍馬は再び江戸・小千葉道場に遊学。江戸で武市半平太(瑞山)らと知り合ったことが彼の運命を大きく変える。武市を指導者とする土佐勤王党の一員となるからだ。江戸で2年間の修行を終えた龍馬は北辰一刀流の免許皆伝を得て帰郷した。しかし、河田小龍に会って気付かされた大きな夢は、直面している現実とはかけ離れていた。そのため、龍馬は尊王・攘夷に凝り固まった人物たちとの交流を持つことにうんざりしたのだろう。彼の心は土佐勤王党とも離別、土佐という一国の地を離れて、もっと自由な境を求めて翔んでいたのかも知れない。
 1862年文久2年)、龍馬は土佐藩を脱藩。千葉定吉の息子、重太郎の紹介で幕府政事総裁職松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となったのだ。龍馬が抱いてきた大きな夢が果たせるようになったのは、何といっても勝海舟との出会いだった。蒸気船で太平洋横断の壮挙を成し遂げ、米国に渡って使命を果たしてきた勝は、そのころ軍艦奉行並として第十四代将軍家茂の側近に仕えていた。すでに米国を見てきた男は、開国の思想を抱いていた。龍馬にとって勝は、日本第一の人物であり、天下無二の軍学者だった。驚くことにその勝に、少年時代“劣等生”に近かった龍馬は認められるのだ。剣術家・坂本龍馬は、いつのまにか世界の情勢にも明るく、軍艦操練の実際にも触れ、軍艦の運航にも詳しい知識人として頭角を現してくる。そして、幕末の政局を海の男として存分に闊歩するのだ。薩長の連合も、龍馬がいてこそ成立したものだ。さらに大政奉還の“大芝居”も龍馬が画策したのだ。こうした世間の意表を突くような大事件が次々に実行された背景には、龍馬の自由にして雄大な夢がいつもついて回っていたといえよう。
 龍馬になぜ、これほど大きなことができたのか。やはり、龍馬の陽気な性格、雄大な志、そして真っ直ぐな行動力を備えていたことに加え、勝海舟の門弟だったことが何より大きな要因だ。そして龍馬自身、海軍操練所の運営を任されるほどの成長を遂げていたからだ。勝が背後についていたからこそ、龍馬は西郷隆盛と会い、木戸孝允とも知り合うことができた。越前福井藩松平春嶽大久保一翁と言葉を交わすこともできたのだ。幕末における第一級の人物と、彼ほどに多く言葉を交わした男は少ないだろう。第一級の人物を相識(あいし)ることで、彼もいつのまにか第一級の人物と世間で認められるようになっていたのだ。
(参考資料)平尾道雄「坂本龍馬 海援隊始末記」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二坂本龍馬人間学」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、安部龍太郎「血の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、宮地佐一郎「龍馬百話」、豊田穣西郷従道

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<今日の小池劇場>
◆“市場移転”漂流の中 二重負担で業者限界。
 豊洲市場移転の先行きが見通せず、負担を被る築地の業者からの切実な声が上がるな中、東京都は今日始めて業者への保証内容を検討する有識者会議を開いた。本来は先週に豊洲市場で新たなスタートを切っていたはずだが、業者には二重の負担がかかっていた。ホウスイは生地の冷蔵庫を54年間使い続けてきた。移転するとなるとかけなくていい設備の修繕をしなくてはならないため、延期の期間が読めないと、築地維持費用と豊洲移転費用の二つがのしかかっている状態である。冷蔵庫棟の移転には70億円の費用がかかり、月に2000万の利益を得ている中、ランニングコストで6000万円もの損失をしている。先が見通せない中、市場問題のプロジェクトチームが、築地業者に初めてのヒアリングを行った。ここでも補償や決定のプロセスについて質問が出た。ヒアリングが終わると市場側からは「2回でも3回でもヒアリングをやるべきだ」という意見や「移転反対というよりも風評被害でいけない」という声もあった。